対外政策の変遷
 ~アヘン戦争情報~
 


 モリソン号事件
1837年、強硬策の文政令下にモリソン号事件が起こった。浦賀沖に来航した一隻の異国船に向け、浦賀砲台から大砲を撃ったのだ。甲板に命中はしたが、破壊力は弱く、船はそのまま帰帆、浦賀沖でも再び打払いに遭う。船籍は不明であった。
翌年、長崎にオランダ風説書が入る。そこには「日本人漂流民の送還を目的に、マカオ出航時に意図して大砲をはずした非武装船に対し、有無を言わせぬ発砲は、極めて遺憾である」とあった。この風説書にはいくつかの誤報も含まれており、最大の誤報はモリソン号をイギリス軍艦としている点である。モリソン号はイギリス軍艦ではなくアメリカ商船であったが、このオランダ風説書を修正する情報が後にも入らず、そのまま信じられてしまう。
日本国内では早くも1838年9月付で、次のような上申書を出した人物がいた。「清国は何といっても大国であり、夷狄も容易に手を出さないでしょう。朝鮮琉球などは貧弱の小国であるため目にかけず、従ってイギリスは第一に日本を狙い、次に清国を斬り従える手順となりましょうから、実に憂うべく憎むべき事でございます」
イギリス側にこの意図はなかったと思われるが、日本国内には強い反英・脅威論が浸透した。これを追うように翌1839年、オランダ風説書と唐風説書が新しいニュースを伝えた。清朝とイギリスのアヘン密輸を巡る対立、林則徐による外国人貿易商の手持ちアヘン没収、清英間の軍事衝突、交戦、イギリスの大勝という内容である。
アヘン戦争
長崎に来る中国船は、アヘン戦争の主戦場である江南の寧波、南京、乍浦などを出航するため、伝えられる戦況情報には臨場感があった。江南地方は古代の遣唐使以来、日本との関係が深い地域である。イギリス海軍の破壊力と圧倒的な優位に、幕府は震撼した。
このイギリス海軍がモリソン号の報復にやってくるに違いない。日本側のイギリス脅威論が増幅された。武家政権の幕府は、戦国時代の経験を踏まえ、戦争の持つ意味、兵力の強弱、城下の誓い(敗戦条約)の意味などを充分に理解した。幕府は海軍を持たず、武力では明らかに列強に劣る。こうして「避戦論」が徐々に形成されていく。
二系統の情報
幕府は、長崎に入る中国船とオランダ船に対し、航海メモ程度の簡単な報国を長崎奉行経由で提出させていたが、アヘン戦争という重大なニュースに接して、より詳細な報告を求める方針に切り替えた。それを「オランダ別段風説書」と呼ぶ。そのニュース・ソースは、多くが中国南部で刊行されていた英語の新聞雑誌で、イギリス側の情報が多い。それらをジャカルタで編集し、オランダ語に訳した長崎にもたらした。唐風説書は、清朝の官報などの引用もあるが、多くが戦場で目撃した各地の噂の類である。これは中国側の見解を示すものが多い。
これら二系統の情報は、利害が相対立する双方の情報戦争である。戦況分析には貴重な資料となる。「風説」が事実であるか否かはわからない。しかし二系統の情報を対比し、事実に限りなく近いものと、事実から遥かに遠いものを選りすぐり分けることは可能である。この手法はすでに新井白石より百何も前から使われていた。
その後のアヘン戦争に関するニュースは、オランダ船が戦場海域を避け欠航したため、中国商船だけが伝えた。現存する唐風説書と唐別段風説書は、1840年8月から1842年2月までの約1年半に計7通ある。
唐風説書から幕閣が読み取ったのは、個々の陸戦では中国側の民兵が勝つケースが多いものの、海軍を持たない清朝軍に対して、イギリス海軍の圧倒的優位という事実である。幕閣はまた、イギリス海軍が清朝の食料など物資運搬ルートを封鎖するのではないかと読んだ。
中国の物資運搬ルートは長江、大運河、海路の三つである。1841年4月の唐風説書は、長江の河口に位置する定海県がイギリス軍に占領されていると伝えた。翌年2月の唐風説書は、イギリス海軍が香港から長江河口一帯の制海権を掌握したことを知らせた。長江と大運河の交差する鎮江が封鎖されれば、三本のルート全部が機能不全に陥る。長江を遮り鎮江を越えた奥に旧都の南京がある。南京は明代前半の帝都で、清代には帝都北京に次ぐ第二の都市であった。幕閣は中国の地政学に詳しい。




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