対外政策の変遷
 ~幕府の対外令~
 


 200年間の鎖国政策
ペリー来航時の幕府の対外政策は、1842年に公布された穏健策の天保薪水令であった。1825年公布の強硬な「異国船無二念打払令」を撤回し、1806年の文化令に復す形式で、穏健策を敷いていた。幕府は対外策の決定に、日本に来航する異国船と接して得た直接情報と、間接情報として長崎に入る海外情勢を生かしていた。海外情報には中国船・オランダ船が長崎にもたらす書籍類と、幕府が提出を義務付けていた風説書(最新情報)とがある。風説書には情報源を区別して、唐風説書、和蘭風説書と呼んだ。とりわけ阿片戦争(1839~42年)の軍事衝突に幕府は強い衝撃を受けた。
幕府の対外政策であるが、キリシタン禁制等を主とする「鎖国」が完成した1641年から、およそ150年を経た18世紀末以降、鎖国政策の役割は大きく変わり、主として次の三点となっていた。
1、キリシタン国以外の外国船(異国船)への対処
2、日本人の海外渡航禁止
3、大型外洋船の所有・建造の禁止
鎖国の維持困難に
18世紀末になると、異国船が日本近海に出没する事件が多発し、旧来のままの鎖国政策維持は困難になった。政策変更には対外情報を把握しなければならない。ヒト・カネ・モノを包含する情報である。鎖国の最中、幕府はどのように情報を入手し、それを如何なる論理で分析し、政策に生かしたのか。
幕府は四回にわたり、異国船対処の方針を打ち出し、沿岸部に領地を持つ諸大名に周知させた。これらの対外政策は、長崎在住のオランダ商館長から外国にも伝えられた。
① 1791年の寛政令
② 1806年の文化令
③ 1825年の文政令
④ 1842年の天保薪水令
寛政令と文化令は、北方からのロシア船に対するもので、食料と水・薪など必要な物資を与えて帰帆させる穏健策である。
打払い令
それに対して文政令は、外国船が沿岸に姿をあらわせば、ためらうことなく大砲を打てとする強硬策であり、「無二念打払令」といわれた。強硬策を採用した遠因をたどると、1808年、イギリス軍艦フェートン号が長崎に来航し、奉行の制止を聞かずに上陸。牛などを食用に奪った事件に行きつく。フェートン号の来航はナポレオン戦争の余波であり、長崎のオランダ商館のオランダ国旗を引き下ろすのが目的で、日本攻撃のためではなかった。しかし、奉行の制止を聞かない行動は「国権侵害」ととられ、長崎奉行は責任を取って自害、この事件以降、官民を問わず反英論が根強くなったのだ。




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