幕府を作り上げた人々 ~酒井忠勝.2~ |
一方、土井利勝の晩年からは、重要事項の決定には元老的存在として、近江国彦根藩主井伊直孝が迎えられ参画している。家光は、将軍親裁政治を展開していくため新参譜代の幕閣中枢への進出を図っているが、他方では門閥譜代の酒井忠勝を大老に押し上げながらも、井伊直孝を幕政に参画させ、全体の調整を図っている。こうして寛永19年(1642)12月以降になると、家光は盛んに老臣の会合を開いて重要問題の会議を行っている。
四代将軍となった家綱は、何分幼少でかつ病弱であったため、はいめは幕府権力を維持していくため幕閣の急激な異動は行わず、集団指導によって幼将軍を盛り立てていく体制が整えられていった。さしあたって幕閣を構成したのは、大老の酒井忠勝と老中の堀田正盛・松平信綱・阿部忠秋・阿部重次であり、他には元老の井伊直孝であった。ところが、このうち堀田正盛と阿部重次は、家光の後を追って殉死したため、遂に人事の異動を余儀なくされたのである。幕閣は、忠勝・信綱・忠秋はそのままとして、井伊直孝を元老とし、新たに家綱側近の松平乗寿を老中に加え、家光の異母弟の保科正之を家綱の補佐役として再スタートすることになった。忠勝は65歳、直孝は62歳、信綱は56歳、忠秋は50歳とかなり高齢であり、家光政権成立期には清新な若さを持った幕閣の首脳部も、老朽な円熟した政治家となっていたのである。こうして幕藩体制の政治・社会の組織づくりは彼らの老練な手腕によって、いよいよ軌道に乗る事になったのである。
万治2年(1659)7月1日、元老の井伊直孝が病死した。忠勝は翌3年には日光山に参詣し、宮前において剃髪し、空印と号した。寛文2年(1662)3月16日には松平信綱も67歳で亡くなった。 そして忠勝も7月12日夜、老衰のため76歳の生涯を終えたのである。 |