幕府を作り上げた人々
 ~酒井忠勝.2~
 


 大老職に
酒井忠勝が大老の任ぜられたのは、土井利勝と一緒である。大老は老中の上に位置しているが、常置ではないので日常幕政に関与することはなく、重要な政策決定の席にのみ出席した。忠勝と利勝が毎月朔日と15日の総出仕の日だけ江戸城に登城することになったのは、表面上は優遇するかのように見せつつも、実は幕政の中枢から遠ざけられていったものと言われている。忠勝が大老に就任してからのち、幕政の展開は、まず寛永16年(1639)の鎖国令の完成、翌17年の江戸城本丸の完成、同20年3月の田畑永代売買の禁止、正保元年(1644)12月の幕府の領主的土地所有を確定した「正保国絵図」の作成、慶安4年(1651)4月の慶安の変の処置などである。これらは勿論、忠勝がすべてにおいて直接参画したわけではない。しかし、土井利勝が大老就任後わずか2カ月ほどで中風に倒れてしまったので、大老職の活躍は全て忠勝によって行われたのである。
一方、土井利勝の晩年からは、重要事項の決定には元老的存在として、近江国彦根藩主井伊直孝が迎えられ参画している。家光は、将軍親裁政治を展開していくため新参譜代の幕閣中枢への進出を図っているが、他方では門閥譜代の酒井忠勝を大老に押し上げながらも、井伊直孝を幕政に参画させ、全体の調整を図っている。こうして寛永19年(1642)12月以降になると、家光は盛んに老臣の会合を開いて重要問題の会議を行っている。
 家光から家綱へ
家光は慶安3年(1650)暮ごろになると健康がすぐれず、病状は一進一退となったが、翌4年4月20日に世を去った。死期の迫るのを知った家光は、酒井忠勝にいろいろと後事を託している。
四代将軍となった家綱は、何分幼少でかつ病弱であったため、はいめは幕府権力を維持していくため幕閣の急激な異動は行わず、集団指導によって幼将軍を盛り立てていく体制が整えられていった。さしあたって幕閣を構成したのは、大老の酒井忠勝と老中の堀田正盛・松平信綱・阿部忠秋・阿部重次であり、他には元老の井伊直孝であった。ところが、このうち堀田正盛と阿部重次は、家光の後を追って殉死したため、遂に人事の異動を余儀なくされたのである。幕閣は、忠勝・信綱・忠秋はそのままとして、井伊直孝を元老とし、新たに家綱側近の松平乗寿を老中に加え、家光の異母弟の保科正之を家綱の補佐役として再スタートすることになった。忠勝は65歳、直孝は62歳、信綱は56歳、忠秋は50歳とかなり高齢であり、家光政権成立期には清新な若さを持った幕閣の首脳部も、老朽な円熟した政治家となっていたのである。こうして幕藩体制の政治・社会の組織づくりは彼らの老練な手腕によって、いよいよ軌道に乗る事になったのである。

 酒井忠勝死去
忠勝が、将軍家綱の初政に大老として在任したのは僅か5年間であった。承応2年(1653)閏6月に、のちに下馬将軍と言われた酒井忠清が老中に任ぜられ、忠勝らと連署を命ぜられたが、やがて忠勝は大病を患い、老衰によって出仕は止められ、明暦2年(1656)3月には大老を免ぜられることになった。忠勝は豊かな学問と教養を身に付けた、幕閣随一の学者であった。それが諸大名の間の忠勝への大きな信頼となっていたのである。にも拘らず、この学問・教養は政治家としては充分に行かされたとは言えなかった。ともすれば彼自身の考えとは別な方向に政策は推進されていくことも多かった。ここにも学者の政治への参画の難しさがあったのである。
万治2年(1659)7月1日、元老の井伊直孝が病死した。忠勝は翌3年には日光山に参詣し、宮前において剃髪し、空印と号した。寛文2年(1662)3月16日には松平信綱も67歳で亡くなった。
そして忠勝も7月12日夜、老衰のため76歳の生涯を終えたのである。




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