首相チャーチル
~ノルウェー作戦の失敗~
 

 第二次世界大戦
勃発したばかりの第二次世界大戦は、実に奇妙な戦争であった。それはポーランドをナチスドイツから救うために始まったものだが、ナチスに宣戦した英仏には具体的な救援の方策がなかった。イギリス空軍はベルリンを空襲したが、落としたのは爆弾ではなくて宣伝ビラだった。フランス陸軍はマジノ線から一歩も出撃しなかった。その間にヒトラーは、ポーランド攻撃に専念して、東ヨーロッパをスターリンとの間で分割することができた。むしろイギリスが真面目に戦ったのは海上であった。ドイツの豆戦艦グラーフ・シュペーは、南米モンテビデオでイギリス巡洋艦隊に追い詰められて自沈した。シュペーの為に捕らわれていたイギリスの捕虜299名は、ノルウェー沿岸でドイツの補給船から救出された。イギリス艦隊と輸送船に襲い掛かるUボートには手を焼かねばならなかった。チャーチル海相のラジオによる戦況報告は戦意に溢れていた。「私は、Uボートが無慈悲に駆り立てられているとは言わない。神が無慈悲である事をお許しでないからである。しかし海軍はともかく熱意をもって、いささかの喜びをもって戦っている」
チェムバレン首相は、1939年9月3日の開戦を告げるラジオ放送で、「私の政治生命を通じて求めてきたもの、希望してきたもの、信じていたもの一切が破滅してしまった」と語った。それは到底、国民の士気を高めるような演説ではなかった。彼は過去を忘れることができず、そのため戦争の中に破滅しか見ることができなかった。それに対して、チャーチルにとって戦前の過去は、すでに開戦と共に終わっていた。彼はむしろ、自分がこれまで批判し続けたチェムバレンから入閣を求められたことを素直に喜んでいた。海軍省内でもチャーチルの家庭内でも、チェムバレンの悪口をいう事は一切禁止されたという。チャーチルはどこまでも首相に対して忠実に行動したのだ。
 戦争遂行を望むチャーチル
しかしチャーチルは、積極的な戦争の遂行を要求してチェムバレンを攻め立てた。中でもアルザスからライン河に浮遊機雷を流すこと、そしてノルウェー水路(冬にバルト海が凍ると、スウェーデンの鉄鉱石を運ぶドイツ輸送船はこの細長い水路を通らなければならない)に機雷を敷設すること、この二つをドイツ経済を苦しめる即時実行可能な政策として提案した。しかし前者には、戦争を自国から遠ざけたいと考えているフランス政府が反対した。後者については、ノルウェーの中立を犯すことになるとして、イギリス外務省が躊躇した。代わってフランス政府は、ドイツに石油を供給しているソ連のバクー油田を爆撃するという奇抜な提案を行っている。英仏がソ連と戦争をする事になっても差し支えないと思ったのだろう。チャーチルはこれには反対であった。この時期のチャーチルは、ソ連は世界革命の中心ではなく、むしろ英仏との「大同盟」に加わるべき国だと考えていたのである。39年10月ソ連軍がヒトラーとの協定によって東部ポーランドを占領したとき、彼は「ヒトラーの東へ向かう道が閉ざされた」としてそれを歓迎していた。
同じ10月の末、ソ連軍がフィンランドに進攻し、フィンランド軍の強い抵抗を受けた。これまであらゆる侵略を黙認してきた国際連盟がソ連についてはにわかに奮起し、ソ連を除名した。英仏はフィンランド救援のための遠征部隊を準備した。
 作戦の失敗
チャーチルはこのフィンランド救援にも反対であったが、極めて巧妙な作戦を提案した。遠征部隊は、フィンランドに達する前にノルウェー、スウェーデンを通過しなければならない。その途上で、ドイツへの鉄鉱石の積み出しが行われているノルウェーのナルヴィク港を奪取し、ついでスウェーデンの鉄鋼鉱山を破壊する。フランスは、この反ソ戦争の名目のもとで行われるドイツの鉄資源への攻撃によって、対独戦争に巻き込まれることになるであろう。彼にとって、英仏遠征部隊がフィンランドに到達するかどうかは重要ではなかった。このいささか常軌を逸した巧妙な作戦計画に従って、イギリスの内閣は40年4月8日にノルウェー水路の機雷敷設を決定した。
4月4日、チェムバレンは保守党の集会で演説して、イギリスの再軍備が着々と進捗しているのを自賛してから、「ヒトラーはバスに乗り遅れた」と言う悪名高い一句を吐いた。
だが、実際にバスに乗り遅れたのは英仏側であった。4日後、ドイツ軍はデンマークを占領し、ノルウェーの重要な港をすべて掌握した。イギリスはノルウェー政府の援助の要請にこたえて出兵したが、その作戦全体が組織的な計画と準備を欠いていた。ノルウェーの飛行場は全てドイツ軍に抑えられており、イギリスの海軍と陸軍はドイツ空軍の行動範囲内では自由に行動出来ないのを知って今更のように驚いた。




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