ノルウェー作戦の失敗は、ダーダネルズ作戦の失敗同様に、チャーチルの没落をもたらすのではないかと思わせた。しかし事態は真逆の方向に進んだ。5月7日から8日にかけての下院の討議で、失敗の責任者として追及されたのはチェムバレン首相であった。エメリーが、17世紀のいわゆる長期議会に対するクロムウェルの言葉を引用して、有名なチェムバレン弾劾の演説を行った。「・・・貴公はこの席に長く坐りすぎた。去れ、お前にもう用はない。神の名において出ていけ」次いでロイド・ジョージが、「彼が官職を捨てること以上にこの戦争の勝利に貢献するものはない」と演説した。チャーチルは、ノルウェーにおける海軍の失敗に対する全責任を買って出て首相を擁護したが、ロイド・ジョージはチャーチルに向かって、「同僚に爆弾の破片が当たらないようにする防空壕の役を引き受けない」よう要請した。採決においては、これまで政府を支持していた議員のうち41人が野党とともに反対票を投じ、さらに約60人が棄権した。240票ばかりあった政府の多数は81人に転落した。
その翌日、チェムバレンはエメリーら保守党内の反乱軍を味方につけようとした。しかし彼らは、自由党、労働党が参加して連立内閣に改組しない限りは入閣を拒絶した。チェムバレンは両党の指導者に連立内閣に参加する意向があるかどうか打診した。チェムバレンは首相の地位にとどまりたいと思っていたが、両党が恐らく彼の下での政権参加を拒絶することをあらかじめ知っていた。
チェムバレンを更迭しようとするならば、次期首相は誰にすればよいのか。明らかにチャーチルがその候補者であった。しかしチャーチルには、多くの難点があった。彼のこれまでの無分別で軽率な言動、多数の保守党議員の反感、労働党の敵意、そのうえチャーチルが首相になれば、戦争が「品位と抑制」を欠いた激烈なものに転化していくことは充分に予想された。彼に代わるものにはハリファックスがいた。彼は宥和政策の外相としての汚点を負っていたが、巧みに非難を免れてきた。現在では、チェムバレンとアトリーを含めて全政治指導者がハリファックスを首相として受け入れたであろうという事が判っている。しかもこの点では、チャーチル自身がいわば武装解除の状態にあった。彼はこれまで再三、この国家非常事態にあっては誰のもとでも政府に参加すると言明していたからである。
チャーチルは9日の昼食を、イーデン、そしてチェムバレンに忠実な国璽尚書ウッドとともにとったが、このウッドがチャーチルに、もしチェムバレンからハリファックスが首相として適任と思うかどうかと尋ねられたら、少なくとも沈黙を守るように約束させた。果たしてその日の午後、チェムバレンは党幹事長マージェソンを同席させて、この二人の首相候補と会った。首相がチャーチルに、ハリファックスのもとで政府に参加するかと質問した。「私は普段は良くしゃべるのだが、この場合には黙っていた」「非常に長い沈黙」―約2分間と言われる―が続いた。ついにハリファックスが口を切って、上院議員である彼が首相になるのは都合が悪いであろうといった。次いで、チャーチルが沈黙を解く順番であった。「私は、国王から組閣を要請されるまではいずれの野党とも連絡を取らないだろう」こうして、雄弁の人チャーチルが、沈黙によって首相就任に同意したのである。
ここに至って、チャーチルの首相就任を阻止できるのはチェムバレンだけであった。この時、突如としてチェムバレンに援軍が現れた。翌5月10日の早朝、西部戦線の奇妙な沈黙を破ってドイツ軍がオランダ、ベルギーに侵入した。この非常事態に政権交代を行うべきでないと主張することができるようになったのである。しかし閣議では、チャーチルに沈黙を勧めたウッドが今こそチェムバレンが辞任するときであると主張したのだ。この日の午後5時、ポーンマスで全国執行委員会を開いていた労働党から、「新しい首相のもとで」政権に参加するという回答が届いた。これがとどめの一撃となった。午後6時、チャーチルはバッキンガム宮殿で組閣の大命を受けた。
組閣の骨組みを作る仕事は、その夜のうちに海相の執務室で進められた。その日の深夜から翌日の早朝、寝室に退いたチャーチルは、「深い安堵感」を感じていた。それまでの10年間、何度も入閣の希望が裏切られたが、それが幸いして彼には「過去の政策に対する何の責任もなかった」そして言う。「私は運命とともに歩いているかのように感じた。私のこれまでの生涯がすべて、この時、この試練のための準備に他ならなかったと感じた」
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