石田三成からの手紙 ① 称名寺宛て |
~手紙の内容~ 柳瀬(近江賤ヶ岳の北。柴田勝家本陣近く)置かれたものが帰り罷り、その書状、使者口上趣とも(秀吉)に申し上げたところ、一段とご満足でした。重ねてかの地へ人を置いてください。なお筑州(秀吉)より直接お礼するとの仰せです。 柳瀬ニ被付置候もの罷帰候とて、御状御使者口上趣具申上候慮、一段御満足之儀候、重○も彼地人を被付置、切々被仰上尤存候、尚、近々可申承候、恐々謹言 石田佐吉 三月十三日 称名寺 貴報 天正11年(1583)3月13日 称名寺宛書状 称名寺蔵 |
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山崎の合戦で明智光秀を破り、秀吉は天下人への道を大きく歩み始めた。しかし賤ヶ岳の戦いがあった天正11年(1583)当時、秀吉をめぐる環境は決して楽観できるものではなかった。北陸の柴田勝家・佐々成政、美濃の織田信孝や伊勢の滝川一益、東海道の徳川家康ら名だたる強敵が秀吉の包囲網を築いていた。子飼いの家臣が少なく、織田旧臣たちを短期間で味方に取り込み勢力を拡大していた秀吉は、一歩間違えば彼らの支持をなくし、その地位を失う恐れがあった。 中でも反秀吉陣営の筆頭・柴田勝家との戦いは、秀吉にとって非常に厳しいものであった。越前の柴田勝家が雪で動けない冬期に、滝川一益・織田信孝を押し込めた秀吉は、雪解けとともに柴田軍の攻勢に曝されることになる。多方面での戦いを強いられた秀吉は、ある意味この時期が最も窮地だったかもしれない。秀吉としては短期決戦を望んでいたが、戦巧者の勝家は賤ヶ岳付近の柳ケ瀬の隘路に強固な陣を敷き、秀吉軍を牽制した。 そして秀吉が柴田軍に釘づけにされているとき、岐阜の織田信孝が蜂起、秀吉は腹背に敵を受けることになった。ここにおいて秀吉は大きく戦略を転換し、主力をもって岐阜の信孝を討つこととする。強敵・勝家を後に回し、まず孤立した敵を全力で倒すというこの戦略は、「我が主力をもって敵の分力を討つ」という戦いのセオリーに沿ったものであった。 だがもし勝家が秀吉不在の留守部隊に攻勢をかけた場合、秀吉側は非常に危険な状態に陥ることになる。この作戦が功を奏するかどうかは、勝家が攻勢をかけて来ても留守部隊が耐えている間に秀吉がその情報をいち早く掴んで戦場に戻ってこられうかどうか、時間との勝負にかかっていた。 情報とその速度、それがこの戦いの勝敗を握っていた。三成はまさにこの情報戦の一翼を担っていた。
秀吉が岐阜に転身した4日後、勝家側の大攻勢が始まった。この行動を秀吉予定の戦略とし、秀吉がわざと隙を見せて勝家軍の攻撃を誘い出したとみる向きがあるが、必ずしもそうとは言えない。もちろん、秀吉は勝家が攻勢をかけてくると考えていただろうが、その勝家の攻勢は秀吉の予測を超えたものであった。 秀吉は柴田軍の攻勢に耐えるよう、勝家と対峙する最前線の堂木山・東野山を結ぶ線に強固な陣城を築いていた。事実この防衛線は何回か勝家の攻勢を凌いでいる。 しかし、勝家側の猛将佐久間盛政は、その堅陣を迂回し、手薄な第二陣に攻撃を仕掛けるという大胆な戦略をとってきた。秀吉側の第一陣で勝家軍の攻勢を防ぐという思惑は外れたのだ。この攻勢により、秀吉側の中川清秀は敗死、高山右近、桑山重晴は敗走。背後に敵を受けた第一陣の部隊にも動揺が走り、兵の逃散が始まった。秀吉軍の危機であった。
この大返しの際、秀吉が近在の村々に炊き出し、松明の提供などの協力を求め、夜間であるのに兵は空身で駆けたという有名な話があるが、このような素早い対応が可能になったのは、三成らが作った地縁のネットワークが働いていたからであろう。 大返し後の賤ヶ岳合戦の行方は良く知られている通りで、勝家は敗走し、北ノ庄で自刃。盛政は捕縛されて処刑される。この合戦では、加藤清正ら有名な賤ヶ岳七本槍と並んで、三成も一番槍の働きをしたという記述が「一柳家譜」にある。だが、この一番槍が本当に三成の者であったかは疑問符がつく。 三成の働きは、やはり諜報戦の中にあった。三成が賤ヶ岳で恩師・秀吉から学んだことは、戦場での槍働きよりも、もっと広い戦略を見据える目であっただろう。 |