松陰の死生観 ~人事を尽くして天命を待つ~ |
大道寺有山の「武道初心集」にも「武士たらんものは、正月元日の朝雑煮に餠を祝ふとて、箸を取り初めるより其年の大晦日の夕に至る迄、日々夜々、死を常に心にあつるを以て本意の第一とは仕るにて候」というのがある。「武道初心集」は、享保の頃書かれたというから「葉隠」より後になる。刀を取って相対したとき、二人のどちらが生き残れるかと問うた時、昔の武士は死を決しているものの側に勝利の女神が微笑むと信じていたものである。 この言葉を思って「死に急ぎ」の考え方だと批判する者も多かったが、しかし、幾多の戦場に出て、刀の下をかいくぐってきた実歴の士の多くはそれを信じるに十分な経験を持っていた。 だが、泰平の世が続き、戦場がなくなってからは、武士たちは死の思想の対極で生の事に重きを置き始めたものである。つまり、「人事を尽くして天命を待つ」という考え方の方が主流を占めてきた。 山鹿素行の考え方がそれである。素行は、武士たるの本文を次の五つの項目に収めている。 一、武士としての自覚を高めること 一、意思を明確にすること 一、徳を練り、才能を磨くこと 一、よく行為の善悪を省み、威儀を正しくすること 一、常日頃の行いを慎むこと であった。此処には死の問題は不問に附されている。不問と言って言い過ぎならば、遠く背景に隠されているといってもよいだろう。
しかし、士にはそれが無いのだ。そこで、士の職分は何かと問われなければならないが、この時浮かぶのは倫理や道徳に関することである。 まず、何よりも五常の徳を磨かねばならないのだ。五常とは、仁義礼智信という最高の徳目のことである。そのためには、身を慎むとともに、聖人や君子の書を読まねばならない。そして、その心を深く読み取らなければならないのである。現実を生きることで、武士は武士たるの道を見出さなければいけないのだ。 「威あって猛からざる」の武士。それが素行の描いた武士像であった。「葉隠」の山本常朝は、その晩年に起こった赤穂義士の仇討ちを上方流の見てくれ武士道だと笑った。常朝に言わせると、仇討ちなどというものは即座に打ち返すのが本来であって、ゆっくり計画を立てて、一年もかかってそれを行うようなものではない。それが成るか成らないかは、次の段階で言うべきことだとする。そこには「人事を尽くして天命を待つ」などという迂遠な言葉はどこにも出てこない。赤穂浪士たちが、大石内蔵助の統率のもとにあったとすれば十分に納得がいく。大石は素行の影響を受けて育ったからである。 「赤穂浪士たちは、吉良上野介の首を供えた泉岳寺で何故に腹を斬らなかったか」 という常朝の疑問もそこから解けてくる。それは、まさに人事を尽くした後の天命を待つ姿だったのである。
「山鹿語類」を読めば、そこには当然、士道のことも書かれている。松陰は、その武士道の死生観を教えられながら育っていったとみるべきであろう。彼は、簡単に武士は死ぬべきだなどという考え方は持たなかったようだ。 それよりも、生の一瞬一瞬を少しもゆるがせにすることなく生きることの方を教えられていたと言ってよい。それは松陰が少年の頃からの生き方を見てもよいだろう。 松陰は、立てられた目標に対して、まっしぐらに進んでいる。傍目もふらず真直に突き進んでいる。そして、その進行の中で、次々と目標を大きくして、努力を傾注したのだ。19歳で、他流の軍学をも修めたうえ、明倫館に出て講義ができるようになったのも、そうした努力の結果であった。 |