信玄の侵攻作戦
 ~諏訪侵攻戦~
 


 諏訪惣領家を滅亡させる
天文10年(1541)6月14日、父武田信虎をクーデターにより追放し、家督の座をつかんだ武田信玄は、1年間はないせいで実力を貯め、翌11年6月諏訪への侵攻作戦を開始した。
諏訪平の領主は諏訪氏で、諏訪上社の大祝として勢力を扶植し、神主でもあり武将でもあるという立場で諏訪郡を統一していたのである。そのころ、諏訪氏の惣領家の当主は諏訪頼重で、頼重は武田信虎の娘(信玄の妹)禰々と結婚しており、武田氏と諏訪氏は同盟関係にあった。信虎の時には諏訪氏の力を借りて信濃経略に取り組んでいたのである。
信玄の代になって、諏訪氏とは対立関係となったのであるが、その要因は二つ考えられ、一つは諏訪頼重が、家督を奪って自立したばかりの信玄に先制攻撃を仕掛け、小笠原氏、村上氏らと語らって甲斐に侵入しようとしたという説であるが、3者が合同で甲斐に攻め込んだということが史実かどうか良質な資料がないため確実には言い切れないようだ。
それに対しもう一つの要因は、逆に信玄がはじめから領国拡大の意図で諏訪に攻め込んだというものである。
 諏訪氏が抱えていた矛盾
戦国武将が対外侵略の戦いに踏み出す論理はいくつかあるが、その一つは内の矛盾を外に転嫁することである。つまり、信玄は父信虎を国外追放という形で家督を相続したため、甲斐国内が混乱しており、信玄の支配に不満を抱いている家臣も少なくなかったのだ。そうした状況を信玄は的確につかみ、甲斐国をまとめる手段として諏訪への侵攻をもくろんだということになる。
しかし、同盟関係である諏訪国へ攻め込んだ理由はそれだけでは弱い。さらなる理由として考えられるのは、この地が甲斐と地続きであることと、諏訪氏そのものが矛盾を抱え込んだ弱点があったことが考えられる。
当時、諏訪頼重は、諏訪下社の大祝家である金刺氏と争い、さらには同じ諏訪一族の伊奈郡高遠の高遠頼継がこの金刺氏と結んで頼重と対立していたのである。一体感がなく、弱体化した諏訪氏の情勢を見て、信玄はこうした状況を見て、信濃への侵攻を決意したのである。
 諏訪頼重を謀殺する
天文11年6月24日、信玄は甲信国境の境川を越えて、諏訪領に侵入した。信玄は金刺氏および高遠氏と組んで、東西呼応する形での出陣であり、結局諏訪頼重は、本拠の城である上原城を支えることができず、もう一つの城である桑原城に籠って最後の一戦を考えたが、完全に周囲を包囲されてしまい、落城は時間の問題であった。
ところが何を思ったか信玄は、桑原城を力攻めにすることをやめ、頼重に講和を申し入れているのである。7月5日のことであった。頼重のほうから降伏してきたのかもしれないが、いずれにせよ頼重は「信玄の妹婿なのだから、一命は助かるし、或は本領安堵してくれるかもしれない」という甘い思いを抱いていたのだろう。
しかし信玄はそこに付け込んだ。何の疑念も抱かず講和の御礼言上のためと甲府へ身柄を移された頼重は、7月21日甲府の東光寺に幽閉され、切腹させられてしまった。このとき頼重だけでなく、弟の頼高も切腹させられたため、諏訪惣領家はここに滅亡させられてしまったのである。
 諏訪社を手中にするメリット
諏訪惣領家を滅亡させたことにより、信玄はその遺領分配に取り組んだ。結局、それまでの諏訪領を2つに分け、宮川を境として、それより西の地域を高遠頼継に与え、自らは宮川より東を領することとなった。だが頼継はこれに不満だった。
頼継には諏訪一族であるという思いがあった。そのため「惣領家を滅ぼし、自らが惣領家になりたいため、信玄に味方したのだ」という意識があったようで、諏訪領の半分しかもらえない状況に不満を募らせた。
とうとうその不満が爆発し、頼継は諏訪上社の禰宜矢島満清や伊奈郡福与城の藤沢頼親と結んで上原城を急襲し、下諏訪社に火を放ち、さらに諏訪上社と下社を占拠するという挙に出た。
信玄はこのとき、家臣の板垣信方に命じて、諏訪頼重の息子である虎王を前面に立てて諏訪に攻め込んだのである。
いかにも策士であり、謀略家信玄というべきか。諏訪の人々にとってみれば、旧主の遺児に弓を引くわけにはいかない。結局多くの諏訪一族は、頼継の反乱には加わらず、虎王のもとに結集し、結局武田軍によって頼継は一敗地にまみれ、高遠へ逃げ去った。
信玄が諏訪を手中に治めたのはいろいろな面で意味があった。一つは、信濃攻略のための突破口が開けられたという点。だからこそ自分の妹婿でさえも犠牲にできたといえる。
もう一つは、信濃一宮としての諏訪社を手中に治めたいという点である。諏訪社は「軍神」としての側面があり、武田家でも諏訪信仰があったというから、それを直接手中にした意味は大きい。信玄が諏訪社を保護することで、信濃の人々の人身把握を容易にしたという面もある。




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