勝頼の出生と高遠諏訪氏相続
頼重の娘を側室に
 


 高遠諏訪頼継の反乱
頼重降伏後、信玄は諏訪郡を二分し、東半分を武田領、西半分を高遠諏訪頼継領とした。だが、これに頼継が不満を持った。彼の妻は諏訪頼満の娘であったうえに、本来の諏訪氏惣領は頼継の先祖で、南北朝騒乱で南朝に与して惣領職を弟の家系に奪われた経緯がある。だから頼継は、自分には諏訪氏惣領となる資格があると考え、諏訪郡全体の領有を望んだのである。
更に問題があった。大祝諏訪頼高の処遇である。頼高の身柄を預けられた上社禰宜太夫矢島満清は、今後成長した彼が自分を謀反人とみなすだろうと危惧した。そこで信玄と頼継に、頼高殺害を持ちかけたのである。その結果、諏訪頼高も7月9日に甲府に護送され、頼重とともに自害に追い込まれてしまう。享年15歳の若さであった。
9月10日、挙兵した高遠諏訪頼継は上原城を攻略し、下社・上社も制圧した。ここに、諏訪衆の怒りは頂点に達した。おりしも、武田方と諏訪満隆(頼重の叔父で一門の長老格)が、頼重の後継者として遺児寅王を立てようと談合していたところを邪魔された形になったというからなおさらであった。信玄は甥の寅王を奉戴し、諏訪郡に出馬した。諏訪満隆・満隆兄弟、上社神長守矢頼真を筆頭とする社家衆、諏訪氏の家老千野伊豆入道らは、寅王を支持した。9月25日の安国寺合戦は、武田方の大勝に終わる。この結果、信玄は諏訪郡一円の領国化に成功した。天文12年4月、宿老板垣信方に諏訪郡在城の命が下った。信方は同年6月に上原城に入り、初代「諏訪郡司」として諏訪郡の軍政を、ほぼ全権委任されることとなる。
諏訪一門の処遇については、まず信玄は寅王の名を不吉とし、頼重生前に千代宮に改名させていた。上社大祝職には、諏訪満隣の次男伊勢宮丸(頼忠)が7歳で就任した。上社大祝は郡外に出られないため、少年が任じられる慣習を踏襲したものと言える。なお満隣の嫡男頼豊は、諏訪郡を治める武田氏奉行人となっていく。
矢島満清の上社禰宜太夫職は、神長守矢頼真に与えられた。天文11年12月、頼真は嫡子信真を禰宜太夫職に任じている。家老千野氏の惣領職も、頼継に味方した千野宗光から、寅王に従った千野伊豆入道に移された。
つまり信玄は、頼重兄弟を切腹させ、寅王を改名させた他は、諏訪衆を刺激する動きは控え、高遠諏訪頼継・矢島満清の暴発を利用して、諏訪郡の領国化を進めたことになる。
ただし、夫を実兄に殺された禰々の苦しみは癒えることが無く、天文12年正月19日、16歳の短い生涯を閉じる。
  信玄と乾福寺殿との結婚息子
こうした状況下で行われたのが、諏訪頼重の遺女乾福寺殿の輿入れである。その時まだ14歳であったという。生母は頼重側室の麻績氏である。後に「太方様」と呼ばれて勝頼から丁重に処遇され、武田氏滅亡と運命を共にする。
「甲陽軍鑑」によると、父を殺された娘を側室に迎えることに復讐を案じた強い反対が出たものの、山本勘助が「頼重の息女を召し置かれれば、諏訪衆は喜び、御息女に御曹司が生まれたときは、諏訪の家も続くことになり、出仕を望むようになる」などと進言したため、話がまとまったという。
仕官間もない牢人上がりの勘助に、このような発言力があったとは思えない。だが、諏訪氏滅亡と事実上の家臣団解体という現実を前にすれば、頼重娘乾福寺殿の輿入れは、諏訪衆の待遇改善に繋がると考える者が出るのではないか。無論、これは勝者側の武田氏の一方的な理屈である。板垣信方・甘利虎泰・飯富虎真ら宿老3名が反対したという記述は、武田家臣からも暴挙と映ったことを示すものだろう。屈辱と捉え不満を抱くものが出てもおかしくはない。
この意味で問題なのは、信玄と頼重娘の間に生まれた御曹子を諏訪の跡取りにすれば、諏訪の御家は安泰という発想である。頼重の遺児寅王の存在を無視しているからだ。
武田氏への不満の痕跡は、天文15年8月28日、これまで信玄に従っていた諏訪満隆の自害に現れている。この年こそ、勝頼が誕生した年であり、満隆は寅王による諏訪氏再興に危機感を抱いたのではないか。
満隆自害の理由は、彼の子息で、諏訪仏法寺の僧侶賢聖への冷遇によって一端が明らかになる。信玄は永禄8年(1565)に諏訪大社復興に乗り出し、他者の知行地になっていた膨大な神領の返還と、旧知行主への替地宛行を進めた。その際、神領の一部が賢聖の知行地となっていることに気付く。信玄は、賢聖は「逆徒之愛子」であるため、替地を与える必要はないとして、知行地を没収して諏訪大社に返付してしまった。「逆徒」というからには、満隆は謀反を試みたのだろう。
だが、勝頼誕生だけでは、満隆謀反の動機としては弱い。ましてや、乳幼児の死亡率が高い時代である。諏訪氏家督継承を待望された寅王の処遇の方が重要であろう。満隆は諏訪一門の長老格として、寅王による諏訪氏再興を信玄に求めていたからである。
  寅王は殺害?出家?
寅王と思しき人物のその後が、「寛永諸家系図伝」や宝暦3年(1753)成立の「千曲之真砂」に記されている。それには、頼重の子は侍者長岌という者であった。幼い頃から父の敵を討とうと志し、信玄が昼寝をしている時に小刀で刺したという。信玄は驚いて目覚め、恐れを抱いて甲府一条寺に沙門(僧侶)として出家させた。その後、長岌は今川義元の誘いに乗り、甲斐を出て駿河に向かったところ、追手に発見され、信玄の命で殺害されたという。
義元が長岌を引き取ろうとする話は、甲駿同盟から事実とは考え難い。ただ、寅王の消息が途絶えることからすると、出家させられたという話は事実かもしれない。最期についても裏付けはないが、勝頼誕生により、信玄が寅王を出家させようと動いた可能性は否定できないだろう。これが、満隆に不満を抱かせた要因であろう。
この逸話にしても、信玄は自分を刺した長岌を殺害せず、この時点では出家で済ませている。諏訪郡を治める点でも、若年の甥を殺害することはマイナスにしかならない。出家させて、謀反の芽を積むだけで充分だったろう。
なお、乾福寺殿は弘治元年(1555)11月6日に死去した。勝頼10歳の時である。「軍艦の記述を史実とすれば享年25歳の若さである。法名は乾福寺殿梅岩妙香大禅定尼で、墓は伊那郡高遠の建福寺に所在する。勝頼は永禄12年(1569)7月13日に高野山成慶院に供養を依頼し、元亀2年(1571)11月1日には、臨済宗の高僧鉄山宗鈍を高遠に招いて17回忌法要を営んだ。高遠で法要を営んだのは、彼女の生母「太方様」が高遠で生活していたからでもある。




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