勝頼の出生と高遠諏訪氏相続
武田氏と諏訪氏
 


 武田と諏訪の同盟
武田勝頼は、天文15年(1546)武田信玄の四男として生まれた。宿敵の織田信長は天文3年(1534)生まれであり、ちょうど一回り年下である。
生母は諏訪頼重の娘で、名前は伝わっていない。井上靖氏の「風林火山」では由布姫、新田次郎氏の「武田信玄」では湖衣姫などと言う名で呼ばれていたが、ともに創作である。前者は井上氏が執筆時に逗留した由布院温泉、後者は諏訪湖とそこに注ぐ衣之渡川に因むという。諏訪御寮人という通称も「諏方氏の娘」と言う意味であり、法名から乾福寺殿と呼ぶのが確実なのだと思う。
武田氏と諏訪氏は、天文4年に武田信虎と諏訪頼満(頼重の祖父)が和睦し、同盟が結ばれた。天文9年11月、新当主諏訪頼重(勝頼の外祖父)は、信虎の娘禰々(信玄の妹)を妻に迎える。
天文10年5月、信虎は娘婿諏訪頼重、及び北信濃の雄村上義清と連合して、信濃小県郡に攻め込んだ。滋野一族の惣領海野棟綱は抵抗空しく敗北し、上野に亡命した。
6月に帰陣した信虎は、もう一人の娘婿今川義元を訪ねようと、駿府へ旅立った。ところがその日、嫡男信玄が国境を封鎖して、家督を奪取したのである。
  諏訪頼重の抜け駆け息子
海野棟綱を保護していた関東管領山内上杉憲政は、これを好機と捉え、7月に信濃佐久・小県郡へ侵攻し、棟綱の帰国を計った。ところが、案に反して諏訪頼重が迅速に出陣し、防備を固めたのだ。出鼻をくじかれた山内上杉勢は、すぐに和睦して撤退した。
だが頼重は、その後も軍事行動を続け、佐久郡蘆田郷を占領して国衆蘆田依田氏を服属させて帰陣した。諏訪大社上社の神長である守矢頼真は「甲斐の武田勢も、村上殿も出し抜かれる形で」と日記に記している。新規占領地を獲得した頼重の独断行動が、問題にならないか危惧したのだ。
天文11年4月4日、禰々は頼重嫡男寅王を生んだ。6月11日には、お宮参りが行われている。同盟強化につながるもので、守矢頼真の不安は杞憂に思われた。
ところが同月24日、頼重の義兄武田信玄が、諏方氏庶流の高遠諏訪頼継および諏訪大社下社と結び、諏訪郡に侵攻してきたという急報が入った。信玄は、頼重の「抜け駆け」を許してはいなかったのである。
  諏訪頼重の滅亡
突然の侵攻を、頼重は現実のものと受け止められなかったようだ。真偽を確かめたいと時間を浪費してしまった。電光石火の武田軍を食い止めることは不可能であった。28日夜、漸く諏訪上原城で軍勢を招集したが、近習すらろくに集まらず、手勢は1000に満たない。頼重は交戦もままならず、桑原城に逃げ込んだ。
自害の決意を固めたところ、和睦を勧告する信玄の使者が訪れた。家臣の勧めるまま、頼重は桑原城を開城しての降伏を受諾した。しかし、結ばれた条件は、頼重がいまだ事態を把握できていないことを物語る。武田勢の諏訪駐留を認める代わりに、頼重に叛した高遠諏訪頼継を切腹させるという内容であったからだ。信玄に頼継を切腹させる理由などない。
7月5日、頼重は甲府に護送され、武田氏筆頭家老板垣信方の屋敷に入った。上社大祝である弟諏訪頼高は、頼重と不仲であった禰宜太夫矢島満清に預けられた。諏訪大社大祝は、諏訪郡から出てはならぬという不文律が守られ、家臣団や上社社家衆は安堵した。
7月21日、頼重は甲府東光寺で切腹を命じられた。享年27歳。だが、これで事は治まらなかった。




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