景勝の謙信崇拝
 ~謙信への信仰心~
 


 養父謙信の信仰心を引き継ぐ
上杉景勝は、養父謙信を敬う事尋常ではなかった。その謙信の信仰心を引き継ぎ、後世に伝え、今なお受け継がれているほどである。それは清胤に師事した謙信を敬仰して菩提寺を密教とし、真言宗寺院としたことである。
おそらく全国二百数十藩のうち唯一の藩だと思われる。徳川家は当初天台宗の僧侶天海によって上野に寛永寺が建立されたが、のちには浄土宗の芝増上寺が建立されて菩提寺となった。伊達家の菩提寺は塩釜の瑞巌寺であり、臨済宗の寺院である。武田信玄の菩提寺は日蓮宗の総本山久遠寺であり、その何れもが顕教の宗派である。顕教は葬祭派とも言われ、密教に抗する宗派であり、衆生の機に応じて言葉であからさまに説かれた教えをする宗教である。
米沢藩の上杉家は、密教の真言寺院を菩提寺としているが、これは初代藩主の景勝の遺言によるものである。景勝は死期の近づいたことを悟った元和9年(1623)3月の遺言書の中に、「私が死んだら法音寺の能海和尚に大導師をさせるように」と、書き記している
  心休まらぬ日々の景勝息子
景勝が没したのはその3月20日、享年69歳であった。当時としては長命な部類であり、養父謙信より20年長く生きた計算になる。しかし、景勝の人生はまさに波乱万丈であった。
弘治元年(1555)越後魚沼郡に生まれたが、10歳のとき父長男政景が溺死し、その年母の弟上杉謙信の養子となったが、心の休まるときはなかった。
養父謙信は元亀元年(1570)北条氏康の七子氏秀を養子に迎えている。謙信は姉の子景勝を養子に迎えていたのにもかかわらず、宿敵北条の子を養子に迎えたばかりか、自分の幼名である景虎を名乗らせている。戦国時代、大名間の養子縁組や婚姻は、そのほとんどが政略的なものであった。氏秀の養子縁組も政略的なものであったが、配偶者となるのが政景の娘である。景勝と景虎とは、奇しくも義理の兄弟となったのである。
謙信の病没後(天正6年3月13日)、二人の養子景勝・景虎は上杉家の継嗣をめぐって争う羽目になった。翌天正7年(1579)景虎夫妻は自刃して相果てたばかりでなく、謙信に上杉姓を譲った関東管領上杉憲政も殺害されてしまったのである。
その景勝が、菩提寺に真言寺院を選んだのは、謙信が真言に帰依していたことによるものである。景勝は養父謙信の志を継承したのであるが、謙信が真言に帰依した過程はいかなるものなのであろうか。
  謙信の真言宗帰依息子
謙信が真言に帰依するようになる動機はいくつかあげられるが、最も大きいことは、天正2年(1574)12月、僧清胤を師として、身に印を結んだこと、口に真言を唱えることを身につけて髪を剃ったことであろう。印を結ぶということは、両手の指を様々に組み合わせて宗教的理念を象徴的に表現することであるが、形でなく仏の境地になることである。
謙信はさらに、京都尾にある大覚寺(門跡寺院)義俊の執り成しで法印大和尚の位につき、2年後の天正4年(1576)には再び越後に下向した清胤によって、真言の密義を悉く授けられたばかりか阿闍梨大僧都に任ぜられるまでになるのである。謙信と義俊はその後いっそう信仰が深まり、朝廷や将軍家の橋渡し役を務めてくれた。
謙信といえば、越後春日山城外の林泉寺において七世天室光育に学んだことで名高い。謙信は当時7歳。長じては八世益翁宗謙について教えを受け、のちには不識庵を号するまでになったが、これは学問や禅に対する修行であった。
景勝は謙信の信仰心の篤い事、真言に徹した言動を身近に感得していた。さればこそ真言寺院を菩提寺として尊敬してやまない謙信の精神に一歩でも近づこうとしたのであろう。
謙信は大覚寺門跡の執奏によって法印権大僧都の法名を受けているが、この伝統は初代藩主たる景勝から代々受け継がれている。景勝・定勝・綱勝と続く藩主の遺骸を高野山に埋葬するときは、米沢を二つ隊の編成で出発し、一隊は高野山に、もう一隊は京都の大覚寺に向かい、ここで法名を得ている。




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