隅田川の橋の歴史
 隅田川架橋の歴史


大都会東京。世界随一の人口を抱える都市として、江戸・東京が発展した背景には、隅田川の存在が欠かせない。その隅田川には、まるで橋の博物館かと言うほど多種多様な美しい橋が架かり、隅田川を上り下りする遊覧船の乗客を楽しませてくれる。
道路の一部としての橋は、川で隔てられた対岸へ行くための重要な構造物であり、橋ができることによりお互いの交流がより密となる。浅草寺が隅田川河畔に建立されたのが645年と言われるが、それ以来隅田川両岸には人が集まり集落が形成されていたにも関わらず、橋は架けられず、両岸は渡し船によって結ばれていた。
隅田川最初の橋となった千住大橋が欠けられたのは浅草寺建立から900年もたった1594年のことである。徳川家康が江戸城に入り、江戸城築城に着手し、仙台・伊達政宗の往来の便を考慮しての事と言われる。家康は1603年に征夷大将軍となって江戸に政権を築き、参勤交代制度を採り入れ、江戸幕府の基礎固めをしている時は、諸藩からの侵略を恐れた軍事上の理由から隅田川に橋を架けなかった。
江戸幕府開幕以来、江戸の町は急速に拡大していったが、1657年に死者10万人と言われる明暦の大火があり、隅田川に橋がなかったことにより逃げ場を失った庶民が続出したことにより犠牲者を増やしてしまった事も原因であった。この頃は4代将軍家綱の時代であり、戦国の気風もやわらぎつつあった時代に差し掛かっていたこともあり、時の幕府の最高実力者でもあった保科正之らの政策もあって、隅田川に橋を架けようという機運が高まり始めた。まず1661年に両国橋が架けられた。当時、千住大橋がある千住は江戸市中からは遠く、江戸市民が日常利用する隅田川の橋としては両国橋が最初である。この橋の完成によって、本所・深川が発展し、江戸の街も隅田川を超えて東へ拡大していった。その拡大とともに、順次、橋も増設されていった。以降、人間が歩いて渡ることができる橋が次々に架橋されていった。
千住大橋を含めて江戸時代に架けられた橋は五橋、明治時代には二橋、大正時代には一橋、昭和になってから関東大震災復興計画事業として四橋、戦時中になる1940年に月島で開催予定であった万国博の会場への幹線道路に勝鬨橋を架け、戦後は五橋がかかった。関東大震災は橋にも甚大な被害をもたらし、新大橋以外の橋は全て架け替えており、現存する橋の多くは震災復興事業で架けられたものと言える。
一般人が渡れる橋が18、っ他梗塞や鉄道の橋などを含めると全部で26の橋が隅田川には架かる。そのそれぞれの橋の歴史をここでは振り返ってゆきたいと思う。




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