隅田川の橋の歴史
 1、勝鬨橋


創架 昭和15年(1940)6月14日
形式 跳開方可動橋 両側が鋼リゾットリブダイドアーチ
   長さ264ⅿ、幅22ⅿ、鋼材重量 両側3553tf、中央1433tf
製作・施工担当 跳開橋=川崎車両 築地側アーチ橋=横河橋梁製作所          月島川アーチ橋=石川島造船所 
        橋脚の鉄鋼製作=宮地鉄工所 可動部の機械=渡辺製鋼所
        電気=小穴製作所 橋脚施行=銭高組
        基礎工事と橋台=東京市の直営
昭和8年6月から着工し、昭和15年(1940)6月14日に開通式を行った。開通式は三代の御夫婦による渡り初めがあり、その後、中央部がハの字に開いて終了した。隅田川で最も下流に架かる橋である。架橋地点は隅田川でも一番地盤が良い所で、地下4ⅿ以下は粘土混じりの堅い砂地盤であるという。上記にする下様に、当時の大企業が手分けして施工した一大プロジェクトであった。

この地点は、明治38年(1905)1月18日、日露戦争の旅順陥落祝勝記念として「勝鬨の渡し」が設置され、盛大な開通式と祝勝会が開催された。だが、当時対岸の月島は明治27年頃までに埋め立てが完了し、石川島造船所の下請け・孫請け会社を擁する工業地として発展し、勝鬨の渡しだけでは交通を捌くことが困難になってきた。明治44年の東京市会において架橋建議が提出され、調査費も計上されたが諸般の事情により、遅々として計画が進まず、ようやく昭和4年の東京港修築計画、昭和5年12月の東京市会で架橋が可決決定された。架橋地点から上流には、石川島造船所、三菱・住友などの大倉庫、東京湾汽船などがあり、大型船舶の航行のため跳開型可動橋を採用することになった。

皇紀2600年に当たる昭和15年には、月島で万国博覧会が計画されていた。この勝鬨橋が都心から万国博覧会会場の通路に当たるため、凱旋門の役目を持つような風格ある形式を選ぶ必要があった。この時、アメリカンブリッジ会社から援助の手が差し伸べられたが、それを断り、すべて日本人の手で設計・施工することとし、当時の架橋技術に、機械・電気技術の枠を結集した結果が今日のような橋の姿となったのであり、完成したときは東洋一の可動橋と言われた。終戦後GHQ(連合国司令部)がこの橋を見て、日本にもこのような素晴らしい技術がある事に驚嘆したという。万国博は日中戦争が激しくなったため中止になったが、勝鬨橋の建築は中止することなく無事完成した。

勝鬨橋には当初から都電のレールが敷設されていて、都電が初めて橋を渡ったのは昭和22年12月24日であり、昭和44年9月28日廃線となるまで22年間続いた。
可動部の開閉回数は最盛期には年間1700回にも達していたが、昭和45年11月19日の開橋を最後に開かずの橋になってしまった。この形式で現存する橋はこの勝鬨橋がわが国では唯一である。勝鬨橋をまた開閉させようと言って運動しているグループもあるようだが、復旧のためにはかなりの工事費がかかる事と、自動車の量が大幅に増大していることから、開閉することは難しい状況である。
       
     




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