隅田川沿いを歩くコース
 1、浅草~両国~森下


 浅草・吾妻橋駒形橋厩橋蔵前神社鳥越神社柳橋界隈両国橋吉良上野介邸跡勝海舟生誕地碑森下の街
   ~このコースの主な概要~
浅草・吾妻橋からスタート。隅田川の橋を渡りながら、西岸、東岸の見どころが多い所をなるべくくまなく歩きたい。
途中、隅田川沿いから外れるコースもあるが、工事していたり、そもそも川沿いに歩けるスペースがない場所もあるのでやむを得ない。むしろ、外れた場所に見どころも少なくない。
厩橋~両国橋の間は、西岸の蔵前の街を歩きたい。蔵前神社・鳥越神社は必見。神田川の起点となる柳橋付近は、江戸城の外濠の起点と言うべき場所でもある。
両国橋から先は東岸に。吉良上野介・勝海舟ゆかりの史跡を廻りながら、森下の街に入って終了。
  
 吾妻橋 隅田川にかかる橋で、浅草と向島とを結ぶ。安永3年(1774)に初めて架けられ、大川橋ともよばれた。それまでは竹町の渡しと呼ばれた渡し船があった場所であった。江戸時代に隅田川に架けられた5つの橋の中で最後の橋。武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残る。 木製だった橋だが、関東大震災で破壊され、昭和6年(1931)に現在の橋になった

 
厩橋 

もともと元禄年間ごろから続いていた「御厩の渡し」のあった場所である。江戸期にかけてこのあたりには橋はかけられなかった。
明治5年(1872)に花見客の人出でこの渡し舟が転覆する事故が起こった。以前から転覆事故が多く「三途の渡し」と揶揄されていたこともあり、民間の手により架橋されることとなる。 明治7年(1874)10月6日完成。だが、この橋は老朽化のために東京府によってプラットトラス形式で長さ86間(約154m)鉄橋に架け替えられた。明治26年(1893)5月6日に完成した。

 
蔵前神社  元禄6年(1694)石清水八幡宮として建立、昭和22年に隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合祀、蔵前神社と改称。徳川五代将軍綱吉が参詣したことにより、篤い庇護を受ける。江戸城鬼門除の守護神ならびに将軍家祈願所の一社として尊崇せられ御朱印社領二百石を寄進された。
「蔵前の八幡さま」と呼ばれ、庶民の崇敬も非常に篤く、関東地方における名車の一つと称されたほどである。
また、勧進大相撲の開催も二十二回におよび、この間大関谷風・大関雷電・関脇小野川などの名力士も当社境内を舞台に活躍し、賑わいを呈した。
 
鳥越神社  日本武尊が、東国平定の際、当時白鳥村といった当地に滞在した後、その威徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源とし、白雉2年(651)に創建したと伝えられる。その後、徳川家康を祀っていた松平神社が関東大震災で焼失したため、大正14年松平神社を合祀した。
正月6日に、正月の残り物を焼く「どんど焼き」も有名。
 
柳橋付近  江戸中期、当時は日本橋下柳原同朋町と対岸の浅草下平右衛門町とは渡船で往来していたが、不便な為元禄10年(1697)に架橋を願い出て許可され翌年に完成。明治20年(1887)に鋼鉄橋になる。その後、関東大震災にて焼失したため震災復興事業として昭和4年(1929)に現在の橋が完成。永代橋のデザインを取り入れたと言われている。平成11年(1999)に中央区区民有形文化財として登録。
 
両国橋 

両国橋の創架年は2説あり、万治2年(1659)と寛文元年(1661)である。千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国2つの国にまたがっていたことから俗に「両国橋」と呼ばれ、(元禄6年(1693)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい。

江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし明暦3年(1657)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った。

 
吉良邸跡 

赤穂浪士が討入りした吉良上野介の上屋敷跡。公園の周囲は高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した塀と門で、園内に吉良首洗い井戸と、これも邸内にあった松坂稲荷社があり、塀の内壁に吉良邸の見取図や義士関係の絵などの銅板がはめこまれている。

 
 



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