伊勢宗瑞の謎
 ~駿河へ下向~
 


 伊勢氏時代の宗瑞
宗瑞の父伊勢盛定は、伊勢氏の一族で備中国荏原郷(岡山県井原市)等を所領とした備中伊勢氏の庶子で、本宗家の伊勢貞国の娘、つまり貞親の姉妹を妻としていた。そのため、備中伊勢氏の庶子とは言いつつも、本宗家とは極めて密接な関係にあった。盛定ははじめ新左衛門尉、ついで備中守、備前守を称した。備中守の受領名は、本宗家の子弟など伊勢氏では本宗家に次ぐ政治的地位にある人物が名乗っており、このことから盛定が、本宗家にとって重要な政治的位置を占めていた存在である事が伺われる。これは盛定が、貞親の義弟であったことによると思われる。そして、盛定の後の備中守の受領名は、貞親の弟貞藤に継承されている。
盛定の事績で注目されるのが、伊勢本宗家と駿河今川氏の間で、本宗家から今川氏宛に出される文書の文案作成を行うなど取次の役割を務めていることである。盛定の娘(北河殿)が、応仁元年頃に今川義忠の正室となるのも、そうした政治的関係に基づいていた。
宗瑞の前身である伊勢盛時は、盛定の次男とされる。ただし、兄とされる貞興の動向は全く知られていないから、盛時は早くから嫡子同然の立場であったと思われる。そして文明3年(1471)6月2日に、備中国荏原郷内に所在し、菩提寺である長谷宝泉寺に禁制を下している。これが盛時の史料上における初見で、康正2年誕生説に基づけば、時に16歳である。
 駿河へ
さらに、「賦引付(くばりひきつけ)」文明13年9月18日条に「伊勢新九郎盛時」の名が見える。そして同15年10月11日に、室町幕府9代将軍足利義尚の申次衆となり、長享元年(1487)4月まで、申次衆としての活動を見ることができる。さらに明応元年(1492)から同2年頃までには、室町幕府将軍の直属軍を構成する奉公衆になっている。
これより以前の応仁年間(1467~69)に、宗瑞は伊勢に下って今出川殿足利義視に仕え、その後尾張に移り、さらに義兄今川義忠を頼って駿河へ下向したという。そしてそのまま駿河に滞留し、文明8年の義忠死後、今川氏の家督相続を巡る内乱で姉北河殿・甥竜王丸(氏親)を助けて調停に大きな役割を果たし、乱後にその功賞として竜王丸から駿河国富士郡下方荘と駿東郡興国寺城を与えられた、と伝えられている。この所伝は、宗瑞の今川家中における華々しい台頭を伝えるものであるが、京都における活動と整合性が見られない。さらにその年齢の若さと相俟って多分に伝説性が感じられ、史実としては大いに疑問が残る。
むしろ長享元年11月に、義忠の死後、実際に今川氏家督の地位にあった、今川小鹿新五郎範満が死去しており、これが竜王丸側による攻撃の結果による敗死とすれば、宗瑞による今川氏の内乱の調停、下方荘・興国寺城の拝領という所伝は、この事件に際してのものと見る方が妥当である。先の所伝に関しては、文明8年の今川氏の内乱について記す「鎌倉大草子」には、宗瑞の名は登場していない。またそれらの軍記には、長享元年の事件については全く記述されていないので、先の所伝は、この二回にわたる今川氏の内乱を混交して作成されたものと思われる。これらのことから、宗瑞は長享元年の4月から11月までの間に、甥竜王丸の今川氏家督継承の実現のために駿河に下向してきた、とみられる。時に32歳であった。
 今川氏の内乱を鎮圧する
そもそも今川範満による家督継承は、堀越公方足利政知と相模国守護扇谷上杉氏の家宰太田道灌の支持を得てなされた。範満敗死の前年の文明18年7月に、扇谷上杉氏の内訌により、道灌が主君上杉定正によって謀殺され、この事件を契機に、関東では扇谷上杉氏の関東管領山内上杉氏との抗争(長享の乱)が勃発した。道灌という強力な後ろ盾を失ったため、範満の権力は不安定化したとみられる。宗瑞は、こうした状況を踏まえて駿河に下向し、反範満勢力を糾合して一気に範満を討滅し、氏親の家督継承を実現させたとみられる。
ちなみに先の下方荘・興国寺城拝領についても伝承の域は出ず、史料によって確認することはできない。興国寺城の築城も、後の天文18年(1549)のことで、しかもその所在は駿東郡であるから、下方荘の支配拠点にそぐわない。下方荘の支配拠点としてふさわしいのは、善徳寺城であるから、同荘拝領が事実とすれば、その支配拠点として拝領したのは善徳寺城であると考えられる。
これに対して、駿河時代における宗瑞の在所として確認されるのは、西駿河の石脇城(焼津市)である。氏親は、駿河府中館に入部する以前は西駿河の丸子に居住していたとされ、宗瑞は、氏親の駿河府中館入部の前後頃に、同城に在城していたとみられる。




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