伊勢宗瑞の謎 ~駿河へ下向~ |
盛定の事績で注目されるのが、伊勢本宗家と駿河今川氏の間で、本宗家から今川氏宛に出される文書の文案作成を行うなど取次の役割を務めていることである。盛定の娘(北河殿)が、応仁元年頃に今川義忠の正室となるのも、そうした政治的関係に基づいていた。 宗瑞の前身である伊勢盛時は、盛定の次男とされる。ただし、兄とされる貞興の動向は全く知られていないから、盛時は早くから嫡子同然の立場であったと思われる。そして文明3年(1471)6月2日に、備中国荏原郷内に所在し、菩提寺である長谷宝泉寺に禁制を下している。これが盛時の史料上における初見で、康正2年誕生説に基づけば、時に16歳である。
これより以前の応仁年間(1467~69)に、宗瑞は伊勢に下って今出川殿足利義視に仕え、その後尾張に移り、さらに義兄今川義忠を頼って駿河へ下向したという。そしてそのまま駿河に滞留し、文明8年の義忠死後、今川氏の家督相続を巡る内乱で姉北河殿・甥竜王丸(氏親)を助けて調停に大きな役割を果たし、乱後にその功賞として竜王丸から駿河国富士郡下方荘と駿東郡興国寺城を与えられた、と伝えられている。この所伝は、宗瑞の今川家中における華々しい台頭を伝えるものであるが、京都における活動と整合性が見られない。さらにその年齢の若さと相俟って多分に伝説性が感じられ、史実としては大いに疑問が残る。 むしろ長享元年11月に、義忠の死後、実際に今川氏家督の地位にあった、今川小鹿新五郎範満が死去しており、これが竜王丸側による攻撃の結果による敗死とすれば、宗瑞による今川氏の内乱の調停、下方荘・興国寺城の拝領という所伝は、この事件に際してのものと見る方が妥当である。先の所伝に関しては、文明8年の今川氏の内乱について記す「鎌倉大草子」には、宗瑞の名は登場していない。またそれらの軍記には、長享元年の事件については全く記述されていないので、先の所伝は、この二回にわたる今川氏の内乱を混交して作成されたものと思われる。これらのことから、宗瑞は長享元年の4月から11月までの間に、甥竜王丸の今川氏家督継承の実現のために駿河に下向してきた、とみられる。時に32歳であった。
ちなみに先の下方荘・興国寺城拝領についても伝承の域は出ず、史料によって確認することはできない。興国寺城の築城も、後の天文18年(1549)のことで、しかもその所在は駿東郡であるから、下方荘の支配拠点にそぐわない。下方荘の支配拠点としてふさわしいのは、善徳寺城であるから、同荘拝領が事実とすれば、その支配拠点として拝領したのは善徳寺城であると考えられる。 これに対して、駿河時代における宗瑞の在所として確認されるのは、西駿河の石脇城(焼津市)である。氏親は、駿河府中館に入部する以前は西駿河の丸子に居住していたとされ、宗瑞は、氏親の駿河府中館入部の前後頃に、同城に在城していたとみられる。 |