伊勢宗瑞は、通説では88歳まで生きたとされている。これは、宗瑞が永享4年(1432)生まれで、享年が88歳だという記載のためであるが、宗瑞が盛定の子、貞親の外甥という系譜関係が成り立たなくなる。また、その後の動向から見ても、この年齢にはあまりにも難点が多すぎる。宗瑞の年齢については当時の史料にはなく、実際に記載が見られるようになるのは、江戸時代中期の享保10年(1725)成立の軍記物「関八州古戦録」や、江戸時代後期成立の「寛政重修諸家譜」所収「北条系図」などまで下るものとなる。最も早いとみられるのも、天和年間(1681~4)以降に成立した「伊勢系図」と思われる。
ところが、それより以前の江戸時代前期に成立した「寛永諸家系図伝」所収「北条系図」をはじめとする各種の北条氏系図や「異本小田原記」「北条五代記」等の北条氏を主題とした軍記物には、宗瑞の年齢の記載は一切見られない。それらの史料には、宗瑞の来氏綱以降の歴代については享年の記載が見られるが、初代の宗瑞のみが享年に関する記載がない。このことは、すでに江戸時代前期に宗瑞の年齢が、その子孫でも不明となっていたことを示している。そしてその後、新史料が発見されたとは考えにくいので、江戸時代中期以降に登場する宗瑞の享年88歳説というのは、一種の「創作」ではないかと思われる。
宗瑞の享年88歳説が後世の「創作」であり、宗瑞の年齢が白紙の状態となると、現在の通説では宗瑞の妹とされる北河殿(今川義忠室)との関係も改めて確認しなおす必要がある。北河殿を宗瑞の妹とする通説も、宗瑞の享年88歳説に基づいて明治時代になって唱えられてきたものである。江戸時代前期に成立した各種の系図・軍記物類を見てみると、いずれも北河殿は宗瑞の姉に位置付けられている。さらに今川氏側の「寛永諸家系図伝」所収今川系図や「今川記」なども、いずれも北河殿は宗瑞の姉に位置付けられている。
ちなみに、小和田哲夫氏は、内閣文庫本「宗長記」における北河殿についての「北条早雲の妹」という傍注の存在から、北河殿が宗瑞の妹である事の傍証としているが、注記は後筆であり、しかも「北条早雲」という表記の仕方からすると、かなり時代が下るものとみられ、そこに史料性を見出すのは困難といえる。
kのように、北河殿は一貫して宗瑞の姉と所伝されており、従って事実を伝えたものである可能性が高い。むしろ、宗瑞の享年88歳説そのものが成立しないことを踏まえれば、こうした江戸時代における一貫した所伝の存在や、北河殿の嫡子氏親(文明5年,1473生まれ)と宗瑞の嫡子氏綱(長享元年=1487生まれ)の生年の差などから見れば、北河殿は宗瑞の姉であったとみるのが正しい。北河殿は、文明5年に嫡子氏親を生むが、それ以前に一女(三条実望室)を生んでいる。その年次は不明であるが、氏親出生の1,2年前、およそ文明3~4年頃と推定される。北河殿が今川義忠に嫁したのは、さらにその1,2年前のことと推測される。これについて小和田哲夫氏は「今川記」の記述をもとに応仁元年(1467)と推定しており、妥当と思われる。北河殿の年齢についても不明であるが、遅く見てこのとき15歳と仮定しても、享徳2年(1453)以降の生まれと推定される。したがってその弟の宗瑞は、早くても享徳年間(1452~5)以降の生まれであろう。 |