松下村塾 ~様々な弟子たちi~ |
杉家より東半町(50ⅿ余)の処にあった久保塾には7,80名の生徒がいたというが、ここから幽室に出入りしたのは、吉田栄太郎、伊藤利助、平野植之助、坂道輔ぐらいしかわかっていない。読み、書き、ソロバンの寺子屋程度の授業内容であった久保塾から、松陰の許に通った人々はそう多くはなかったであろう。門生に数えられながら、松陰の日記や書簡類にほとんど登場せず、村塾での就学状況を明らかにしえない人々が、あるいは久保塾からの通学生であったかもしれない。吉田、伊藤の両名は、松陰に師事してから久保塾に出入りした形跡がなく、おそらく転塾生の類であろう。 幽室に密かに出入りする人々に教授することに始まった松下村塾は、我々が普通に思い浮かべる学塾のイメージではなく、従って、その門下生を確定することも頗る困難である。
むろん、これは松陰が武士教育のみに熱心であったことを意味しない。そうではなく、村塾がたまたま武士人口の多い萩城下にあったことによる。松下村塾に限らず、当時萩城下にあった私塾はいずれも士分を多数擁していた。ただ、村塾の場合、塾生の松陰が元明倫館教授であり、浪人してからも兵学入門者が多かったことが関係しているらしい。いずれにせよ、身分制の厳しかった藩校明倫館は、まだ士分以外の入学を認めておらず、一方、松下村塾は広く士庶一般に門戸を開放していた。萩城下だけでなく、藩内全域から来学者があり、なかには富樫文周のように、遠く安芸から来るものもあった。
|