松下村塾
 ~様々な弟子たちi~
 


 村塾の実態
品川弥二郎は「門人は前後通じて三百人もあった」というが、これは明倫館兵学師範時代の門下生や久保塾生の中で松陰の薫陶を受けたものをすべて含めており、正確ではない。明倫館時代、すなわち嘉永5年(1852)以前の入門者は152名いるが、東北脱藩の罪を問われて士藉剥奪、浪人となってからも子弟の礼を取るものが後を絶たず、万延元年(1860)3月までのいわゆる没後門人を加えると81名を数える。結局、兵学入門者の総計は233名になるが、このうち松下村塾に学んだのは34名余りである。
杉家より東半町(50ⅿ余)の処にあった久保塾には7,80名の生徒がいたというが、ここから幽室に出入りしたのは、吉田栄太郎、伊藤利助、平野植之助、坂道輔ぐらいしかわかっていない。読み、書き、ソロバンの寺子屋程度の授業内容であった久保塾から、松陰の許に通った人々はそう多くはなかったであろう。門生に数えられながら、松陰の日記や書簡類にほとんど登場せず、村塾での就学状況を明らかにしえない人々が、あるいは久保塾からの通学生であったかもしれない。吉田、伊藤の両名は、松陰に師事してから久保塾に出入りした形跡がなく、おそらく転塾生の類であろう。
幽室に密かに出入りする人々に教授することに始まった松下村塾は、我々が普通に思い浮かべる学塾のイメージではなく、従って、その門下生を確定することも頗る困難である。

 塾生の身分
塾生の身分は、士分60名、町人3名、僧侶3名、医師3名、他藩人1名、不明14名であり、士分はさらに、大組、遠近付、寺社組、無給通、三十人通、士雇、足軽・中間等の諸階層に分けることができる。不明14名のうち6名は武士階級であったと思われ、従って武士身分は実に74名、80%以上の高率を占めることになる。
むろん、これは松陰が武士教育のみに熱心であったことを意味しない。そうではなく、村塾がたまたま武士人口の多い萩城下にあったことによる。松下村塾に限らず、当時萩城下にあった私塾はいずれも士分を多数擁していた。ただ、村塾の場合、塾生の松陰が元明倫館教授であり、浪人してからも兵学入門者が多かったことが関係しているらしい。いずれにせよ、身分制の厳しかった藩校明倫館は、まだ士分以外の入学を認めておらず、一方、松下村塾は広く士庶一般に門戸を開放していた。萩城下だけでなく、藩内全域から来学者があり、なかには富樫文周のように、遠く安芸から来るものもあった。
 年齢は
塾生の年齢は一定しておらず、岡田耕作9歳の様に、寺子屋に学ぶくらいの幼年者もいれば、飯田正伯34歳の様に修学年齢を遥かに超えた年配者もいた。つまり大人と子供がともに机を並べて学んでいたが、概して塾生の年齢は若い。入門時の年齢が判明している69名の平均年齢は18.3歳であり、大部分が血気盛んな青少年であったことがわかる。教師の松陰がまだ26歳という若さであったことも関係していただろう。師弟間に対して年齢差がなかっただけに、松陰が理想とする、教師であるよりむしろ同志、もしくは友人として塾生に接することは容易であった。




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