天皇となる
 ~当時の日課~
 


 多忙な日々
践祚後最初の天長節となった昭和2年(1927)4月29日の「東京朝日新聞」朝刊には、昭和天皇の近況記事があるが、見出しに「恐れ多いほど御多忙の御日常」とあり、「僅かなお暇の折々は服部博士や土屋侍従をお相手として生物学の御研究」が、「何よりの楽しみ」とあるが、これは決して称賛のための粉飾ではなかった。
河井と奈良の日記によれば、清水澄、立作太郎、山崎覚二郎、加藤虎之助の論語、フランス人講師によるフランス語などの定期進講のほか、政務や軍務の処理、多くの面会者があり、確かに多忙であった。それゆえ、静養のために、夏の那須御用邸の長期滞在、秋から春にかけての葉山御用邸への度々の滞在が戦争中も実行されてゆく。
践祚後の清水の進講の内容は、内外の時事解説が中心となっていった。例えば、奈良武官長の日記によると、普選法制定後初の総選挙関連(1927年1月31日、5月7日、14日)、フランスの政情(6月5日)、総選挙での無産党議員選出状況の補足(6月8日)、枢密院での審査中の治安維持法緊急勅令(6月26日)、各国の婦人参政権(6月29日)、金輸出解禁に関する時事問題(9月25日)、イギリスの総選挙結果(1926年6月21日)などとなっている。選挙や民主主義国の政情が取り上げられていることから、昭和天皇の政党政治、議会政治への深い関心がうかがえる。清水の進講は1939年4月まで確認でき、太平洋戦争前後まで続いたことは確実なようだ。
 田植えと稲刈り
さらに、新たな恒例行事が増えた。それは田植えと稲刈りである。それを推進したのは1926年7月に内大臣秘書官長に就任した河井弥八であった。河合はその後まもなく東宮侍従の東久世秀雄に「東宮殿下水田御試」を勧めた。それは践祚後の1927年6月に実現した。河合は3月に侍従次長に転じていたが、「聖上陛下御親ら田植を遊ばさる。真に恐懼とも歓喜とも名状し難き思あり」と日記に記した。
これは新聞でも、翌日の「東京朝日新聞」朝刊が「聖上陛下御自ら、お田植を遊ばさる。炎天下を離宮内苑の水田にて、かしこきこの大御心」という見出しで報じたように、天皇の農事への関心の大きさを示す行事として大きく報道された。1930年11月23日には天皇が収穫した米が新嘗祭(収穫を皇祖皇宗に報告する神事)に使われ、河井は日記に「万古未曽有のことなり、予は之を以て陛下に奉じ、御稲植のことに聊か務めたり」と満足の意を日記に記した。昭和天皇も農業の重要性を認識し、「本年は気候不順に付、全国の米作如何あるべきや御憂念」を周囲に漏らすようになった。




TOPページへ BACKします