天皇となる ~直訴頻発~ |
これらのうち、1927年11月19日に、陸軍特別大演習後に名古屋で行われた観兵式における兵士の直訴事件は、軍隊内の部落差別の解消を訴えた事件としてよく知られており、直訴を試みた北原泰作は、以後部落解放運動の中心的な運動家の一人となる。 直訴内容は、不明の3件を除けば天皇や皇室を批判・糾弾するようなものはなく、個人的な問題や社会的、あるいは国家的な問題の解決を天皇に希望するものばかりである。践祚直後の時期に集中していることから、単に天皇という地位への期待だけではなく、昭和天皇という個人への期待も含まれていたことがわかる。
明治維新後、在位中の天皇の誕生日は天長節として祝日となっていたが、過去の天王の誕生日が祝日となるのはこれが初めてであり、世間の明治天皇崇拝の広がりが伺われるが、必ずしも昭和天皇が大正天皇を軽視していたというわけではない。 少し後になるが、1934年2月8日、当時の侍従武官長本庄繁に対し、「先帝の事を申すは如何がかなれども、其皇太子時代は、極めて快活に元気にあらせられ、伯母様の処へも極めて身軽に行啓あらせられしに、天皇即位後は、万事御窮屈にあらせられ、元来御弱き御体質なりし為め、遂に御病気と為らせられたる。誠に、恐れ多き事」と述懐した。戦後も1978年12月4日の記者会見で、「大正天皇とは、幼少の折、将棋を一緒にお相手したこともあるし、また天皇と一緒に世界一周の歌を歌った楽しい思い出も持っています。記憶の良いということは本当に天皇として立派な方だと私は感じておりまして、お若くしてお亡くなりになったことを今なお、非常に悲しんでおります」、1986年4月15日の記者会見で、「大正9年の詔書(平和克復に付浮華驕奢を戒めたまふ詔書)に順応の道を講ずべき秋なり、ということを大正天皇が仰せられましたことを、私は常に感銘して、これを遵奉して対処しています」と述べている。昭和天皇は、機会があれば、世評の芳しくない父大正天皇を懸命にかばったのである。
これを知った昭和天皇は、「時局多難、殊に財界の危機、対支外交等を心配していた」結局、元老西園寺は、政友会総裁の田中義一を後任首相として昭和天皇に推戴。4月20日、田中義一政友会内閣が成立した。大命降下の際、昭和天皇は田中に対し、特に外交に留意するように求めた。同内閣の高橋是清蔵相はモラトリアム(銀行の預金支払猶予)措置を講じ、とりあえず混乱は収拾された。 しかし恐慌自体はそう簡単には収まらず、昭和天皇は、自身の即位大礼の経費節減を宮相に指示している。さらに、陸軍特別大演習統艦のため愛知県に行幸の際に、関係者との会食の席で、「国産奨励の御思召にて内国製時計御使用の旨仰せられ、懐中より御取出被遊、其時計の代価まで御示し」したり、皇居で政府高官らと会食の際、国産奨励のため名古屋から取り寄せた洋服生地を一同に与えるなど、産業振興にも配慮していた。 |