天皇となる
 ~直訴頻発~
 


 相次ぐ直訴
即位後の昭和天皇への世間への期待ぶりがわかるのが直訴事件の頻発である。昭和天皇への直訴事件は、折衝時代にも1件はあったが、践祚後の直訴は、1928年には10件も起きている。もちろん、直訴した本人はその場で取り押さえられている。
これらのうち、1927年11月19日に、陸軍特別大演習後に名古屋で行われた観兵式における兵士の直訴事件は、軍隊内の部落差別の解消を訴えた事件としてよく知られており、直訴を試みた北原泰作は、以後部落解放運動の中心的な運動家の一人となる。
直訴内容は、不明の3件を除けば天皇や皇室を批判・糾弾するようなものはなく、個人的な問題や社会的、あるいは国家的な問題の解決を天皇に希望するものばかりである。践祚直後の時期に集中していることから、単に天皇という地位への期待だけではなく、昭和天皇という個人への期待も含まれていたことがわかる。
 大正天皇をかばう
朝見式後、昭和天皇は、1927年2月7日から8日にかけての大正天皇の葬儀(大喪)を執り行い、多摩陵に葬った。3月3日には東宮職を廃止し、奈良武官長を侍従武官長先任にし、東宮大夫の珍田捨巳を侍従長に据えるなど、東宮時代の側近をそのまま天皇としての側近とした。さらにこれと同時に、明治天皇の誕生日である11月3日を明治節という祝日とした。
明治維新後、在位中の天皇の誕生日は天長節として祝日となっていたが、過去の天王の誕生日が祝日となるのはこれが初めてであり、世間の明治天皇崇拝の広がりが伺われるが、必ずしも昭和天皇が大正天皇を軽視していたというわけではない。
少し後になるが、1934年2月8日、当時の侍従武官長本庄繁に対し、「先帝の事を申すは如何がかなれども、其皇太子時代は、極めて快活に元気にあらせられ、伯母様の処へも極めて身軽に行啓あらせられしに、天皇即位後は、万事御窮屈にあらせられ、元来御弱き御体質なりし為め、遂に御病気と為らせられたる。誠に、恐れ多き事」と述懐した。戦後も1978年12月4日の記者会見で、「大正天皇とは、幼少の折、将棋を一緒にお相手したこともあるし、また天皇と一緒に世界一周の歌を歌った楽しい思い出も持っています。記憶の良いということは本当に天皇として立派な方だと私は感じておりまして、お若くしてお亡くなりになったことを今なお、非常に悲しんでおります」、1986年4月15日の記者会見で、「大正9年の詔書(平和克復に付浮華驕奢を戒めたまふ詔書)に順応の道を講ずべき秋なり、ということを大正天皇が仰せられましたことを、私は常に感銘して、これを遵奉して対処しています」と述べている。昭和天皇は、機会があれば、世評の芳しくない父大正天皇を懸命にかばったのである。

昭和恐慌
こうして始まった昭和天皇の治政であるが、3月14日の片岡直温蔵相の失言をきっかけに昭和恐慌が始まった。片岡の失言で、第一次世界大戦時における大戦景気の反動としての戦後恐慌で、関東大震災で生じた大量の不良債権の処理が行き詰ったことが明らかにされ、預金者が当時国内に多数あった中小銀行に殺到してこれらが次々に破たんしたのである。第一次若槻礼次郎憲政会内閣は、破たんに瀕した銀行の中でも大手の政府系銀行である台湾銀行に緊急融資するための緊急勅令を出すことを天皇に申し出、憲法の規定により枢密院に天皇から諮詢された。しかし、憲政会の対中宥和外交に反感を持つ伊東巳代治ら一部枢密顧問官の策動により否決され、4月17日、若槻は退陣を決めた。
これを知った昭和天皇は、「時局多難、殊に財界の危機、対支外交等を心配していた」結局、元老西園寺は、政友会総裁の田中義一を後任首相として昭和天皇に推戴。4月20日、田中義一政友会内閣が成立した。大命降下の際、昭和天皇は田中に対し、特に外交に留意するように求めた。同内閣の高橋是清蔵相はモラトリアム(銀行の預金支払猶予)措置を講じ、とりあえず混乱は収拾された。
しかし恐慌自体はそう簡単には収まらず、昭和天皇は、自身の即位大礼の経費節減を宮相に指示している。さらに、陸軍特別大演習統艦のため愛知県に行幸の際に、関係者との会食の席で、「国産奨励の御思召にて内国製時計御使用の旨仰せられ、懐中より御取出被遊、其時計の代価まで御示し」したり、皇居で政府高官らと会食の際、国産奨励のため名古屋から取り寄せた洋服生地を一同に与えるなど、産業振興にも配慮していた。




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