蘇我氏と聖徳太子
~推古天皇~
 

 丁未の乱
崇仏派と廃仏派の対立は、馬子と守屋の時代に入り、激しさを増していく。物部氏と蘇我氏の力関係は拮抗していたものの、用明天皇の即位後は、天皇自らの病気平癒を願い、三宝(仏教)に帰依する意思を示したことにより、政権内の権力バランスは馬子を筆頭とする崇仏派に大きく傾き始めていた。
在位わずか2年で用明天皇が崩御すると、守屋は再び穴穂部皇子を擁立し、窮地を挽回しようと考えていた。その穴穂部皇子は即位を焦るがあまり、致命的な不祥事を引き起こしてしまう。亡くなった敏達天皇の皇后で、のちの推古天皇となる炊屋姫(かしきやひめ=額田部皇女)と強引に結婚して皇位継承を有利に運ぶために乱暴しようとした。炊屋姫は敏達天皇の殯宮に奉仕していたのだが、その殯宮を守っていた敏達天皇の寵臣であった三輪逆(みわのさかり)は、無理に押し入ろうとした穴穂部を阻止する。
怒った穴穂部は守屋に三輪逆誅殺を命じ、守屋はそれに従った。さらに穴穂部と守屋は、この三輪逆殺害の勢いに乗じて、このまま皇位奪還のクーデターを決行しようと企てるが、それはやがて馬子の知るところとなる。
馬子は、三輪逆殺害を恨みに思っていた炊屋姫から「速やかに穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺せよ」との詔を得て、穴穂部を誅殺し、さらには守屋を滅ぼすことを決意する。
 物部氏滅亡
587年、馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、のちに聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子や豪族の軍兵を率いて、河内国渋川郡の守屋の館へ出陣する。
最初苦戦した馬子軍の中で厩戸皇子は、「仏神の加護なしには局面は打開できない」と心に決め、ヌリデ(霊木の一種)を切り取り、自ら四天王を掘って頭頂に括り付け、「敵に勝つことができたら、四天王のために寺塔を建立します」と誓願し、戦いに臨んだ。これを機に馬子軍が盛り返して守屋の一族らを討ち、守屋の軍は敗北して離散した。
物部氏は滅亡し、馬子に味方した額田部皇女、厩戸皇子、泊瀬部皇子、竹田皇子らが次期天皇の有力候補となった。ほかにも、敏達天皇の第一皇子だった押坂彦人大兄皇子もまだ健在だったが、馬子は蘇我氏の同族の血を引く皇子たちの皇位継承が政権維持の基本であるとみなしていた。炊屋姫の長子の竹田皇子や用明天皇の長子の厩戸皇子は、いずれもまだ十代半ばであったことから、蘇我氏の血を引く年長者であることだけを理由に、泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位する。
物部氏の没落によって、欽明天皇以来続いていた「崇仏・廃仏論争」は決着がつき、崇峻天皇の御代には法興寺(現飛鳥寺)や四天王寺などの造寺事業が積極的に行われた。
 蘇我馬子の政略
しかし、皇位に就いたのちも、政治の実権は常に馬子が握っており、住まいも飛鳥よりずっと山奥のかなり辺鄙な倉悌宮(くらはしのみや)に移されたことから、崇峻天皇は次第に不満を募らせ、馬子への反感を抱くようになった。
日本書紀によれば、天皇に猪を奉る者があり、その時天皇は「この猪の首を落とすように憎い奴の首を落としたいものだ」と独り言を漏らしてしまう。これが天皇自身の生死を決する決定的な言葉となってしまう。
これが馬子の知るところとなるが、同時に崇峻が密かに馬子を討つための軍備を備えようとしていたことも知る。いずれ崇峻が自分に反逆の刃を向けることを知った馬子は、側近の東漢駒に天皇殺害を命じた。
592年、崇峻天皇は東漢駒の手によって暗殺される。が、その直後には東漢駒も口封じのために殺される。馬子の娘である河上娘を略奪したという罪をでっちあげられ馬子に殺されてしまう。
崇峻天皇亡き後、馬子は額田部皇女を推している。これは、馬子の横暴を良しとしない勢力が中心となって押坂彦人大兄皇子を推す動きが強まったことから、その動きを抑えるために竹田皇子への中継ぎとして、母の額田部皇女を推古天皇として擁立したといわれている。推古天皇は馬子の姪にあたる。




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