蘇我氏と聖徳太子
~蘇我氏の台頭~
 

 物部氏と蘇我氏の争い
地方の豪族たちはヤマト政権において、大王(天皇)を擁立し、政権内で様々な影響力を誇示してきた。その代表格には大伴氏、物部氏、蘇我氏がいる。三氏は政権内で、激しく権力闘争を繰り広げてきた。
大伴金村は武烈天皇の代で王統が途絶えたことから、応神天皇の子孫である男大迹大王を越前から探し出し、継体天皇として即位させ、後見人として影響力を誇ってきた。地方豪族の反対勢力を制圧しながら政権を掌握したが、527年に起きた筑紫国造「磐井の乱」の鎮圧を命じられた。
このとき実際に乱を鎮圧したのは物部氏の物部麁鹿火(あらかひ)であった。物部氏は古くから大和の地に勢力を張った豪族で、兵器の製造や管理を掌握し、軍事をつかさどるようになった。この「磐井の乱」鎮圧をきっかけに、物部氏は大伴氏に代わり台頭する。同時に、ヤマト政権は地方豪族の動きを阻止するために、監視と締め付けを強化しようと、朝廷直轄地の「屯倉」を増やすことになり、この取り締まりを蘇我稲目にゆだねる。蘇我氏は、渡来人との関わりが深く、新興の豪族であった。この稲目の頃から蘇我氏は娘を大王の妃にするなどして、外戚としての地位を固めていった。540年、大伴金村は任那四県の割譲に際し賄賂を得ていたことを攻められ失脚、物部氏の権勢は強固のものとなる。
 仏教伝来とその影響
金村失脚の2年前にあたる538年、百済の聖明王から欽明天皇に仏像と経典の献上があった。日本史上ではこれが仏教伝来の公式見解となっている。
欽明天皇は、仏教を受け入れるべきかどうか豪族たちに問うた。物部尾輿は日本古来の神を重視する立場から仏教受容反対の立場を取り(廃仏派)、蘇我稲目は仏教の導入が大陸の先進文化の受容と経済力の強化につながると賛成の立場(崇仏派)をとった。
この頃、蘇我氏のまわりには、渡来人技術者などが集団を形成し、武具の製作や農業、土木などの先進技術、天文や暦、算術などの大陸由来の知識を広めていた。そのtら偉人たちの心のよりどころが仏教であり、蘇我氏は仏教を通して大陸とのつながりをさらに強くしていこうと考えていた。
一方、物部氏は大連の地位を与えられ、大伴氏失脚後は欽明と敏達に続き、用明天皇の時代まで大連を務め、主として軍事・警察部門の役割を果たしてきた。また、物部氏の配下には中臣氏や忌部氏など、祭事を専門とした職能集団がいて、蘇我氏らの崇仏派に対抗して廃仏派を形成していた。
 蘇我氏と物部氏の対立激化
蘇我氏は欽明天皇以降に影響力を持ち始めるが、非蘇我系で、廃仏派寄りの敏達天皇の時代になってからは、廃仏派が主導権を握り、敏達天皇から仏教排除の認可を得るなど、両氏の勢力はほぼ同等に拮抗していた。
この頃、天然痘が流行ると、その原因を仏教のせいだとした物部氏は、仏教排除の詔を得て、仏塔を破壊し仏像を焼き捨てようとする。しかし585年、敏達天皇がその天然痘で死去すると、天然痘の流行は仏教を不当に迫害した罰であるという世論に代わり、崇仏派が盛り返していく。
やがて蘇我・物部の両氏の対立は、稲目、尾輿の次の世代にまで及ぶことになる。
敏達天皇の崩御を受けて、蘇我稲目の子・馬子は姉の堅塩媛と欽明天皇との間に生まれた用明天皇を擁立する。用明天皇は仏法を重んじたが病弱だったため、政治的指導力を発揮することはなく、馬子が主導権を握っていた。
一方、用明天皇とは異母弟にあたり、稲目の娘、小姉君の子、穴穂部皇子も皇位継承を企み、物部尾輿の子・守屋を頼りにしていた。
蘇我氏と物部氏の対立は、天皇家を巻き込むまでに発展していったのである。




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