蕎麦の真髄 ~蕎麦と禅~ |
最初に禅を日本にもたらしたのは飛鳥時代の僧道昭であるが、この時は日本に定着しなかった。それから400年余の空白期間を経て再び禅を日本に伝えたのは栄西で、2回にわたって宋にわたり、茶・石臼などと共に持ち帰ったのである。曹洞宗の開祖・道元は栄西の高弟に学び禅を広めた。禅は鎌倉幕府の庇護の下で我が国に広く普及し発展する。 「簡素で清々しい」「極限まで無駄をそぎ落とす」という美意識…論理的にではなく、「直感的に」物事の「最深の真理」を捉えることを重視する価値観が、日本人の心にしっかりと住み着いたのである。日本独自の文化と言われる俳句・能楽・造園・生花・茶の湯等もこの時代の価値観を基底として誕生し、室町・江戸時代に隆盛を迎え完成した。 そして「そば切り」の発祥が臨済宗寺院と深いかかわりを持っていたことは、下記のようないくつかの事実・伝承からも窺われるところである。
栄西によってもたらされた茶は、村田珠光、武野紹鴎等によって次第に精神性(心構え)が強調されるようになり、千利休が「侘茶」を完成させた。珠光、紹鴎、利休に共通するのは禅寺で修行したことであろう。 禅の説く「日常あらゆるところが修行の場」であり、こっこから「茶禅一味」の考え方が生まれる。「亭主の振る舞い、客振り、茶室の雰囲気、道具」等が一体となって茶の「美味しさ」を作るとされるようになったのである。
当時、禅僧は修業の為に各地の禅院に移り住む習慣があったという。禅僧の移動は知や習慣の移転を招いたであろうことは容易に想像される。蕎麦もまた禅僧と共に各地へ伝播し日本全国に定着したのである。 数学者であり、そば博士とも呼ばれた高瀬礼文は、「食べ物から、脂っぽいもの、辛い物などをすべて取り去って、残った純粋な形が「ざるそば」。純粋なものの面白さが蕎麦にはある」という。茶禅一味・一期一会の精神・引き算の美学が垣間見える。 この精神性は、十七文字にすべてを読み込む俳句・極限までの動きを抽象化した能楽・枯山水にみる造園・一輪挿しに象徴される生花の心等に共通するものであり、日本文化全体に通底する日本人独自の心的な風景だといえよう。 |