思想形成
 ~清水澄
 


 清水澄の法制経済
その他、御学問所では、国文漢文や美術史、数学など、当時の中学校や高等学校にもある科目も講じられた。そのなかでは、のちに長く昭和天皇の生物学研究の師となる服部広太郎の博物学、清水澄の法制経済が注目される。服部は学習院教授、清水は当時は行政裁判所評定官であったが、それ以前は学習院教授であった。
清水は天皇主権説をpとる穂積八束の弟子のひとりであることから、その憲法学説は長らく真面目な検討の対象にされてこなかった。しかし、当時清水は中学校の法制教科書執筆の第一人者であり、枢密院や行政裁判所の役職を歴任し、大正天皇の憲法進講役を勤めるなど憲法学者としての社会的影響力は美濃部達吉に次ぐものがあった。御学問所の教科書としては、清水が作成した「法制」を使用していた。
清水は国家について、「国家は法人なり」としたうえで、「主権君主に在りとは、国家の主権が君主に存するの謂いなり」と、国家と天皇を別物と認識することで、国家をできるだけ普遍的な存在として説明しようとしている。これは、東京帝国大学教授美濃部達吉が19121年刊の「憲法講話」で打ち出した、国家は法人として主権を持ち、天皇は国家の諸機関の中で最高の位置にあるという、いわゆる天皇機関説にきわめて近い説明である。清水が実質的には美濃部の立場に近づきつつあったことがわかる。
清水はまた「法制」のなかで、天皇主権説の前提としての天皇の絶対性を示すために穂積が考え出した国体政体二元論、すなわち簡単には変わらない国のあり方(国体)と、状況によって変わりうる権力の発動のされ方(政体)を区別する議論を展開している。つまり、清水は不敬という批判を招かない西欧基準の国家論を導入しようとしていたのである。もっとも、天皇主権論と国家法人説が両立するという議論は、論理的には無理があることは否定しがたく、昭和天皇もそれに気づいていたことは、のちに天皇機関説問題の時に明らかになる。
全体として、東宮学問所の教育は、日本が欧米列強に肩を並べつつあった時代状況を反映していた。そもそも総裁の東郷もイギリスに留学経験があり、倫理学の杉浦をはじめ、教員には欧米への留学・渡航経験者が少なくなかった。授業内容も欧米や中国の実証的あるいは普遍的な学問の動向が反映されている面が少なくなかった。要するに、東宮御学問所では、国際社会の中でも立派に通用しうる天皇の育成が目指されていたのである。
また、杉浦や白鳥は、全体として、天皇の絶対化、神格化という当時の政府の公式見解とは異なる、合理的、普遍的な天皇観・国家観を教授しており、清水も同様の方向性を持った国家観を教授していた。特に杉浦や白鳥は、建前はともかく、実際問題としては君主制維持のためには君主個人のカリスマ性も重要な要素であることを認識していたのである。
この東宮御学問所の教育を昭和天皇はどのように受容したのであろう。少なくとも、杉浦の講義を通じて、天皇になった際に周囲や社会から求められる考え方(徳治主義)や振る舞い方を知ったこと、白鳥の講義を通じて天皇が神の子孫ではないことを知ったこと、清水の講義を通じて天皇機関説を受け入れる素地ができたことは確かである。




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