思想形成 ~白鳥庫吉~ |
白鳥は、東京帝国大学で西洋風の実証的な史学方法論を学んだ。日本の近代史学における東洋史学者の草分け的ぞんざいで、卒業後学習院教授となった。御学問所の教員の中核は学習院の教授たちであり、学習院に努めていたことから御学問所に関わることになったと考えられる。御学問所では主任として、幹事の小笠原長生らと御学問所の教員の選定にもあたった。 御学問所用に白鳥が作成した日本史の教科書「国史」が復刻されているが、この教科書は実証的な度合いが高かった。冒頭では、日本民族の優秀性を謳っているが、本論に入ると「我が国には上代より言い伝えし神代の物語あり、建国の由来、皇室の本源、および国民精神の真髄みな之に具われり」と神代についてはあくまで神話であると明記している。また、歴代天皇の事績についても、明治天皇だけは全体の一割を割いて絶賛されるが、それ以外の天皇は批判されることもあった。 たとえば、後醍醐天皇は、小学校の国史教科書では天皇親政を復活したとして高く評価され、杉浦の倫理学講義でも、側近の人選や決断力という点で高く評価されていたが、白鳥の教科書では、後醍醐政権について、「偏に之(建武の中興)を以て皇権拡恢の期至れるものとなし、往々武人を軽んじる風あり、為に行賞宜しきを失して武人に薄く、且つ領土の与奪常なくして之に関する訴訟の裁判公平を欠くこと多かりし」と、かなり批判的な考察が展開されている。もっとも、大学では実証的な日本史が教授されていた以上、それと同格あるいはそれ以上の学識があることが世間的に期待されて当然の皇太子が、このような内容を教授されることはむしろ当然である。 また、白鳥は箕作元八の「西洋史講和」や「フランス大革命史」などを使って西洋史の授業も行ったといわれる。箕作はドイツで実証史学の祖ランケらに学び、東京帝大教授となった西洋史学者。「西洋史講和」は明治43年(1910)に刊行された1200頁を超える大著である。「確実なる歴史の知識を普及し、国民をして世界大勢の推移するところを知らしめ、且これに処する覚悟と抱負とを定るに資」するため、「史実の真相を究め、その因果相関の理を尋ね、以て人文の発達、世運の変遷、治乱興廃の由来等を明らかにせん」として、西洋史を概説している。 同書は、国家興亡史の立場からの評論が豊富なところを特徴としている。たとえば、紀元前371年、古代ギリシャの都市国家テーベが、都市国家スパルタに戦いを挑んだことを、「この際に屈服したならば、テーベは未来永劫頭が上がらぬことになるであろう。かくして瓦全を保つよりは、潔く一戦して、玉となって砕けるか、もしくは国運を開いて大国となるかを試みようとしたのである。此のくらいの決心がなくて、ただ他の同情を失うまいと、そればかり恐れているようでは、とても大国民となる資格はない」と論じている。 「フランス大革命史」は、1919年から20年にかけて刊行された上下2巻の箕作の遺著で、フランス革命史を、箕作得意の史論も含めて活き活きと記した大著である。 御学問所の学友の一人で、のちに昭和天皇の侍従となる永積寅彦は、これら箕作の本が昭和天皇の愛読書だったと回想している。昭和期に入ってから、「箕作元八氏の大部の歴史を、詳細読了」した昭和天皇が鈴木貫太郎侍従長に対し、ナポレオン1世の生涯や、ロシアやドイツの帝政崩壊の要因について語り、のちに本庄繁侍従武官長にも、「露国は仏国と同様貴族と下層民のみにて、穏健なる中間の堅実なる階級を有せざりしことが、革命に倒れし訳なりと箕作の歴史は説けり」と語ったことからは、昭和天皇が1930年の増補版を愛読していたことがわかる。 昭和天皇は、昭和51年(1976)11月6日の記者会見で、「歴史に私が興味を持っていたのは、御学問所の時代であった。主として箕作博士の本で、一番よく読んだのは、テーベの勃興からヨーロッパ中世時代にわたる、英仏百年戦争の興亡史だった」と回想している。 なお、皇太子ならではの科目として、杉浦の倫理学の他、陸海軍の大元帥という天皇の立場から陸海軍将官による軍事講話があり、語学はフランス語が採用された。当時ヨーロッパの王室間の交際や外交ではフランス語が公用語であり、父の大正天皇も修学時代にはフランス語を学んでいた。 |