思想形成 ~杉浦重剛~ |
最も注目すべきは、杉浦重剛が担当した倫理学である。その内容が、東宮御学問所ならではの帝王学だったからである。倫理学の教員選びには手間取った。通常の学校にはない特殊な内容の科目であったためである。結局、在野の名教育者として知られていた日本中学校校長の杉浦が選ばれた。 杉浦は安政2年(1855)生まれ。儒学を学んだあと、東京大学の前身の一つである大学南校で英学を専攻した。4年に及ぶ英国留学では化学を学び、帰国後は国粋主義運動かとなり、言論界や政界で活躍した後教育界に転じた。杉浦が校長を務めた日本中学校の卒業生には、岩波書店創業者の岩波茂雄、画家の横山大観、歌人の佐々木信綱、作家の永井荷風、評論家の長谷川如是閑などがおり、外交官や首相として昭和天皇と係わりを持つことになる吉田茂も在学したことがあった。
杉浦は、講義の基本方針として、三種の神器、五箇条の誓文、教育勅語を重視する方針を立てた。その理由は「神器に託して与へられたる知仁勇三徳の教訓は国を統べ民を治むるに一日も忘るべからざる所」「政道の大本は永く御誓文に存する」「皇儲殿下が将来国政を統べさせ給ふにつきては先づ国民の道徳を健全に発達せしめて 以て勅語の趣旨を貫徹せんことを期せらるると共に御自らも之を体して実践せらるべきもの」というものだった。 杉浦の帝王学の方針は、徳をもった君主が国を治めれば民衆もそれに感化されて国が栄えるという、儒学の政治思想の徳治主義そのものであった。杉浦の思想形成が儒学から始まっていることを考えれば自然なことである。 また杉浦は、初回の講義において、当時の国際環境について、「現今の如く列国相対峙して、競争激烈なる世」なので、「種々困難なる問題の起り来る」ととらえた。そこで、「かかる際には、充分勇気を鼓舞してこれを処理し、之を断行せざるべからず」として、「勇」を天皇に必要な資質の一つであるとした。そして、そうしたなかで国家を発展させるためには国民の協力が不可欠であるとして、国民に天皇を敬い、ひいては国家に協力する気持ちを養うよう主張している。その方法として最も強調されているのが、天皇が自分を犠牲にしてでも国民を大切に思っていること(仁愛)を示すことであった。 杉浦の講義において、最多登場人物は明治天皇であった。明治天皇が発した五箇条の誓文と教育勅語は4回にわたって講義されただけではなく、「敬神」「崇倹」「犠牲」「清廉」「決断」をはじめ、天皇として実践すべきとした徳目の大半で実例の一人として登場している。ちなみに登場回数2位は徳川家康である。 また、犠牲という徳目も繰り返し出てくるが、二年生一学期の「犠牲」という講義では、「天日嗣の御位(天皇の位)に登らせ給ふ所以のものは敢て一身の為にあらず、国を治め民を平らかにせんが為」と説かれる。関連して天皇における「私」の否定も説かれており、同じ学期の「公平」という講義で「天下の公道に従つて其の私を挟まざるは即ち公平」とされ、別の講義では「私情を以て公義を害すべからざること明瞭なり。殊に王者にありては、国家幾千万の蒼生を統御せらるるものなれば」とある。 昭和天皇はこうした杉浦の教育内容を十分に理解していた。杉浦によれば、演説の練習の際に「オランダの某将軍」を題材に、「世に英雄、豪傑なるものは多いが、私欲、名誉、生命に全く超越したものこそ真の英雄豪傑で、この将軍の如きはこれに類する真の英雄である」と「堂々約30分にわたって論ぜられた」という。この話は大正13年(1924)1月11日「東京朝日新聞」において、成婚に際して裕仁皇太子の人格を賞讃する文脈で出てきたものである。
当時の政府の公式の天皇観・国家観とは、伊藤博文の名義で出され、事実上は政府による大日本帝国憲法の「憲法義解」の冒頭にある。「我が国民の分義は既に肇造(建国)の時に定まる」、第一条の説明にある「我が日本帝国は一系の皇統と相依りて終始し、古今永遠にいたり、一ありて二なく、常ありて変なき」という記述に見られるように、天皇の地位は絶対不変というものである。 伊藤博文は、民権派の急進論を抑えるために、こうした天皇観・国家観を憲法に採用した。しかし、それは天皇の絶対化、ひいては神格化による弊害をもたらした。 杉浦の講義の登場人物は、明治天皇をはじめとする天皇が最も多いが、中国の王や皇帝をはじめ、外国人も少なくない。特に初代アメリカ大統領のワシントンやプロシアのフリードリヒ大王は好ましい指導者として繰り返し登場しており、そもそも初回の講義で、君主の心得としての「知仁勇の三徳」について、「支那も西洋も其の教を立つること同一」としている。天皇は普遍的な君主の一種であるという前提で講義が構成されていたのである。その意味でも天皇神格化とは無縁の内容であった。 第一次世界大戦勃発前までの講義では、古今の歴史をふまえたより普遍的な観点からの主張がなされていた。「論語」「尚書」など中国古典の引用も頻繁に行われ、儒学がふんだんに取り入れられていたこともわかる。杉浦としては儒学を一つの柱とし、広く古今の歴史をふまえ、普遍性の高い内容によって天皇としての心を得説いた。 だが、第一次世界大戦終結前後からは、政治思想上の日本の独自性を強調するようになる。 ロマノフ王朝滅亡後の大正7年(1918)春の「和魂漢才」では、「我が国は古より能く外国の文物を学び、今後と雖も、固より彼の長を取りて我の短を補ふこと肝要なり。然れども其の精神に至りては、断じて古来の美を銷磨せしむることあるべからず」と論じ、翌年の「民惟邦本」という題目の講義で、当時論壇を風靡していた吉野作造の「民本主義」に関し、日本においては「民本主義は新奇の語にはあらず」として、五箇条の誓文で「広く会議を起し万機公論に決すべし」とされて「四民平等を以て政治の本義と為し」、「更に明治22年憲法を発布して立憲政治は行はしめらるるに至りては、万民平等を実現しつつある」と、日本なりに欧米流立憲政治が実現していると説いた。 六年生三学期には18世紀フランスの啓蒙思想家ルソーをとりあげ、「ルーソー一度自由平等を唱へてより、世人深く其の真意の如何を察せずして心酔し狂騒す。憂ふべきなり」とし、七年生二学期の「前独逸皇帝ウィルヘルム二世の事」では、第一次世界大戦末期のドイツ帝政の崩壊を取り上げ、「我が帝国の歴史は全然欧州の歴史とその経路を異にす。殊に皇室と臣民との親密なる関係に至りては、世界にその比を見ざる所なり。然れども欧米諸国と交通の結果、彼の思想の滔々として我が国に入り来れるは何人も疑はざる所なり。前独逸皇帝敗北の事、亦一顧の値なしという云ふべからざるなり」と述べている。 もっとも裕仁皇太子は、こうした考え方にはあまり興味を示さなかったようだ。パリ講和条約の成立と国際連盟の創設に対し、「奮励自疆随時順応の道を講ずべき秋」として、「万国の公是に従い、世界の体経により、以て連盟平和の実を挙げ」るとともに、「重厚堅実を旨とし、浮華驕奢を戒め、国力を培養して時世の進運に伴はむ」といい、普遍的な協調外交に強い共感を示しているからである。。 |