1 縄張
 ~城地を決める~
 


 城取と縄張 
城を築くことを「城取」といった。城をどこに「取る」かは、城の堅固さを大きく左右し、領国経営の成否を分かつ重大な問題であった。その失敗は落城、一族滅亡につながるのである。
城地を選ぶ最大の要素は、城を守る兵力であった。それが城の縄張の第一歩である。
「縄張」とは城の設計である。本丸や二の丸などの曲輪(郭)の配置や大きさや形状を決め、堀の深さや石垣の高さを定め、櫓や城門の位置や形式を考えるといった、城づくりのすべてを決定することであった。
まず、最初に自己の兵力を見て、兵力が少なければ(数人から数百人)山の頂部を使った山城とする。兵力多数なら(数百人以上)山とその周囲の平地を含む平山城、あるいは平地だけを使う平城とする。つまり、戦国時代初期のまだ少数兵力同士の合戦が多かった時期は山城が、戦国後期になり兵員動力が多くなった時代には平山城や平城が多くなったということである。
 山城から平城へ
中世(鎌倉・室町時代)には、中小の領主たちが各自の城を構え、兵力は数十人という規模が多かったので、必然的に山城となった。山城であれば、天然の要害(地形が険しく守りやすいところ)を巧みに利用すればよく、高い石垣や深い堀を造る必要がなく、簡単にできてしまうからだ。中世の山城の数は、全国で4万以上もあり、その大部分は中小の領主やその重臣たちが築いた小城であった。
近世(桃山・江戸時代)になると、天下人や大名が巨大な平山城や平城を築いた。山城を築いたのは一部の小大名のみである。近世大名が動員できる兵力は、中世の中小領主の数百倍に達し、その大兵力を収容するための広大な郭内の面積を持つ平山城や平城を選ばざるを得なくなった。逆に、大名の家臣たちは城を持たせてはもらえず、大名の城の中に屋敷を与えられてそこに住むようになった。城主は大名だけになってしまい、それによる城主の激減により、城の数は全国で二百ほどに減った。
このように、日本の城郭は、山城から平山城へ、そして平城へと進化した。その変化は、城兵の収容能力拡大の必要性に起因するものであった。天然の要害を利用できない平山城や平城を選ぶことは、石垣・堀・天守といった土木建築工事の飛躍的な増大をもたらし、逆に城郭数の激減をきたしたのである。
 城は領国の要衝に取る
城取でもう一つ重要なことは、領国全体に目が行き届くような、交通の要衝を城地に選ぶことである。いくら堅固な城がとれるからとしても、城が両国の辺境に偏るのはよくない。また、領国が拡大したら、それに伴って居城の位置を変えるべきでもある。
織田信長は、那古野城(現在の名古屋城二の丸付近)から弘治元年(1555)に清州城へ、さらに永禄6年(1563)には、美濃攻めのために少し北の小牧山城へ、美濃を平定した永禄10年には岐阜城を築き、そして畿内の大半を手中にした天正4年(1576)には近江国に安土城を築いて移居している。もし信長が本能寺の変で命を落とさなかったら、その次は大坂城を築いていたといわれる。彼は常に領国全体を支配するのに都合のよい場所を居城に選んで成功を収めた。
徳川家康も信長を見倣って、三河の岡崎城から遠江の浜松城へ、そして駿河の駿府城へと国を超えて居城を映した。
戦国時代一の築城の名手と言われた藤堂高虎も居城を移している。文禄4年(1595)に伊予7万石を与えられ、板島城(現在の宇和島城)を築城し、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦の功績で伊予半国20万石に出世すると、今治城を築いて移居している。新領国の経営と、瀬戸内海の海上交通の利便を考えると、宇和島は不利であって、新たに居城を築きなおす必要があったのである。
近世大名として残った者たちは、領国経営の利便性、あるいは移封などに伴い、必然的に居城を移すこととなったが、居城を移さなかった大名の末路は厳しいものが多い。移す必要性がなかっただけにすぎないケースが多いのだが、結果として時代の変遷に対応できなかったケースが多く、関東の北条氏、甲斐の武田氏、中国の毛利氏はいずれも滅亡、あるいは厳封の憂き目にあっている。例外は薩摩の島津家くらいで、戦国当初からの大名のほとんどは居城を動かせず、滅亡あるいは厳封の憂き目にあっているのである。(結果論ではあるが)




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