仙台平野新田開発
~川村孫兵衛~
 

 仙台藩を一大経済圏に
「武江年表」の寛永9年(1632)の記述に、「今年より奥州仙台の米穀はじめて江戸へ廻る。今に江戸三分の二は奥州の米の由なり」とある。江戸は、西日本から生活物資を移入し、江戸以北の各藩からも種々の物資を移入したが、中でも仙台藩の本石米は、その美味なことで大いに注目された。仙台米は、やがて江戸の米相場を左右するまでになり、それを可能にしたのが伊達政宗の富国政策であった。
政宗は、天正18年(1590)の葛西・大崎一揆平定後、宮城県全域と岩手県南部を支配することになったが、領内の支配のために家臣団を各地に配置して治めさせる地方知行割制をつくりあげた。そして戦国時代に抱えた多くの家臣団を、平和な時代に入ってからも養っていくために、領内の産業開発に取り組んだ。金山開発、砂鉄精錬、桑・漆・竹・茶などの有用植物の栽培、杉・桐などの植林。製塩等の奨励である。そしていよいよ、新田を開発して米の増産を図るために、北上川の改修工事に着手したのである。
北上川改修工事は、複雑な流路を一定にするために堤防を築き、これによって洪水を防止するとともに、かつての流路跡の低湿地を新田として開発し、穀倉地帯としての米の増産を図り、さらに領内の米の輸送をするための舟運を整備し、発展めざましい江戸に海路米を運び(江戸廻米)、売却して利益を上げようという構想の根幹となるものであった。江戸の急激な人口膨張に、政宗は着眼したのである。
江戸廻米は元和年間(1615~24)から行われ、やがて仙台藩経済の中心を担っていくことになるが、北上川改修工事と米の集積地としての石巻開港はこれをさらに大規模かつ円滑にするためのものである。そのために起用されたのが川村孫兵衛重吉であった。
 川村孫兵衛
北上川を利用した水運は、平安時代に平泉と下流との交流、鎌倉・室町時代に流域の武士団の各拠点を結ぶ連絡のために利用されてはいたが、それが大規模かつ系統的になったのは、南に仙台藩、北に南部藩が成立してからである。
江戸時代の北上川の歴史は、第一に先代・南部両藩が年貢米を藩蔵に輸送する水路として整備されたものであり、これは自然の流路を利用していた。第二は、新田開発のための治水事業であり、築堤や流路の付け替えなどの大工事によって、自然の川が人工の川に変貌することになった。第三は、米の生産を為政者が有効に吸い上げていくための水運機構が整備されたものであった。川村孫兵衛の起用は、第二の事業の時期である。
川村孫兵衛は、もともと毛利氏の家臣で、関ケ原合戦後に浪人となったが、近江蒲生郡で伊達政宗に召し抱えられ、仙台にきたとされている。その後、治水・土木に才能を発揮し、生涯をかけた大事業として、北上川の改修工事に着手するため、釜(石巻市)に移住した。
「仙台人名大辞書」によると、川村孫兵衛は慶長年間(1596~1615)に政宗に仕え、元和9年(1623)から4年間で鹿又以南を掘って北上川を石巻の北東部を西南流する真野川と合流させ、河口に石巻港を開港したとあるが、真野川は孫兵衛の改修工事以前は直接、石巻湾に流れていたとみられる。
 謎が多い孫兵衛の北上川改修工事
しかし、このほかに孫兵衛の北上川改修工事に関する史料は皆無であり、詳細は不明である。
孫兵衛の直系の子孫の川村貞之氏所蔵の「川村氏系図」には、孫兵衛が金山開発に従事し、寛永年間(1624~1644)に石巻を開港させたと記されている。さらに、孫兵衛の菩提寺である普誓寺(石巻市)所蔵の「普誓寺開基略記」には、孫兵衛は新田開発を進め、長い堤防を築き、製塩を盛んにし、金銀山開発に貢献した「富国利民の臣なり」と記されている。また、「岩手県史」の「年表」には、この年(元和9年)春、川村孫兵衛藩命によって北上川中流の日形村より牡鹿の石巻に至る間の川道整理工事に従事するという」と記されている。
以上の史料から、孫兵衛はやはり慶長年間頃に高度な技術・才能を買われて政宗に抜擢され、北上川改修工事を本格的に進めることもあって、石巻に知行地と屋敷を与えられたものとみられる。




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