井上成美と昭和の海軍 ~海軍三羽烏~ |
それ以前の12年2月、広田弘毅内閣が倒れ、陸軍大将の林銑十郎内閣が成立した。この林内閣の海軍大臣に、海軍次官であった山本五十六中将の強い要望で、当時連合艦隊司令長官に就任したばかりの米内光政大将が起用された。さらにこの米内が、豊田副武軍務局長の後任に井上を選んだのである。 米内が盛岡、山本が長岡、井上が仙台の出身であるところから「北国トリオ」とも呼ばれたが、同時にそれは、明治戊辰戦争時の「賊軍」の藩出身ということでもあった。米内57歳、山本52歳、井上48歳である。 林内閣はあっという間に倒れて、近衛文麿の内閣になった。中国では、7月の盧溝橋事件を発端として、激しい戦いが始まっているのである。日本は、国際連盟脱退、ワシントン条約廃棄通告、ロンドン軍縮会議脱退通告と、すでに国際的には「栄光ある孤児」になっていた。このため、ヨーロッパではようやく強硬政策を明らかにし、米英仏と対決姿勢を強めたナチスドイツとの接近が、公然と叫ばれるようになってきた。 ドイツと結ぶ、それは陸軍を中心に研究が進められてきたものであったが、海軍中央にもそれを最善の策と同意するものが、日を追うごとに増えていた。悪化しつつある対米英関係の牽制の為にも、それが望ましいとするのである。 一つには日中戦争が、米国からの輸入の問題もあり、宣戦布告なしに「事変」という形をとっていることから、中国本土の各地で米英の出先機関と衝突せざるを得なかった。特に中国南部沿岸進出、海南島占拠という海軍の南進政策と、米英のアジア政略とは相容れないものであった。そこから対米英に対する不信、米英の中国援助の排除、さらに米英恐れるに足らず、断乎討つべしの強硬論が、海軍中央の中堅幕僚の間から強く叫ばれるようになった。だが、国策を決めるべき閣議は難航する。
そうした「時代の奔流」に真正面から立ち塞がるのは、海軍省の首脳部ということになる。海軍三羽烏である。だが軍令部条例改悪以来、対米英協調派(条約派)の主な提督たちの予備役編入を経て、海軍部内にもすでに伏見宮総長を頭に戴く反英米派(艦隊派)が、大きな勢力を占めるようになっていた。三国同盟問題の主務である軍務局第一課長の岡敬純大佐を筆頭に、同第一課の神重徳中佐、藤井茂中佐、柴勝男中佐などの局員のほとんど、軍令部第一部直属部員横井忠雄大佐、駐独武官小島秀雄大佐が日独同盟強化に賛成という立場を強く表明し、内部からしきりに首脳トリオへ揺さぶりをかけ続けた。岡第一課長は、頑強に主張する。 「日中戦争は、対英外交に帰着するのだから、事変解決の為には独伊と組んで、対英外交のバックを強化すべきだ」 山本・井上は日独伊三国同盟は対米英戦につながると、これを一笑に付した。これに岡たちは反論する。 「孤立主義に固まったアメリカが、強力な日独伊に対抗し、落ち目のイギリスと組む危険はない」 山本も井上も、外国駐在の経験も豊かで、それぞれが独特の世界観を持っていた。山本のそれは「世界新秩序を目標とするドイツに与する事は、必然的に米英の旧秩序打倒戦争に巻き込まれることになり、日本の海軍軍備は、特に航空軍備の現状をもってしては、対米英戦などとんでもないことである。勝算などこれっぽっちもない」ということにあった。 井上は、ドイツの「目的は手段を正統化する」国民性や、民度の低いイタリアに比べれば、イギリスはフランスの「高い身分には義務を負う」の気概、アメリカ人の国家に対する真摯さ、それらの貴さを肌身で体験していた。そしてその国力、資源、潜在的な軍事力の大きさ、こうした諸条件のほかに、井上は独自の国家観・戦争観からも、三国軍事同盟には根本的に反対であった。 「自国の生存が脅かされる場合には、たとえ負けるとわかっていても立って戦わねばならないだろうが、国策の手段として、他国と組んで戦争を仕掛けることは許されないことである」 この井上の言葉は、三国同盟条約のなかにある「自動参戦」の義務条項に対し、絶対相容れぬことを強く表明したものだ。この頃山本は、「俺を三国同盟反対の急先鋒と見ている連中が多いが、一番強いのは井上。」と語っており、反対論の理論武装は井上がしていることを、山本は言いたかったようである。
このころ、山本が「此身滅すべし、此志奪ふ可からず」と遺書に等しい決意をしたためたのは、よく知られている。しかし3人は全くたじろがなかった。その頑張りは崖っぷちでの抵抗であり、海軍立て直しの懸命の艇身でもあった。そして、ラジカル合理主義の井上を、軍令部条例問題の時と違って、最後までその正しいと考えていることを貫き通せた。上に米内・山本がいたからであろう。 結果は、8月23日、突然ドイツがソ連と不可侵条約を締結するに及んで、すべてが雲散霧消した。何故ならこの軍事同盟の第一の対象国がソ連であり、対ソを主点とする防共協定を、対英、対仏にまで広げようとするものであったからだ。そのソ連と条約を結ぶとは、ドイツの背信以外の何物でもなかった。三国同盟問題はあっという間もなく棚上げとなり、平沼内閣は8月28日、「ヨーロッパの天地は複雑怪奇」なる名文句を残して総辞職した。 天皇はこうした激変を眺めながら言った。 「海軍のおかげで国が救われたと思う。また今度の事が契機で、陸軍が目覚めることになれば、かえって仕合せというべきだろう」 しかし、この三国同盟問題が海軍部内に遺したものは実に大きかった。米内・山本・井上に対する深刻な誤解であり不信。さらには海軍中堅層の、自分達の意図に反する海軍政策に対しての苛立ちであり、それでもかろうじて抑えつけたのは、この3名の強烈な人格力である。だが、それはまことに個人的なものでしかなかった。だから、この3人が軍政の中枢から去ったとき、歯止めが効かなくなったどころか、猛烈な反動が起こるのである。1年後、日独伊三国同盟があっという間に締結調印され、日本は一気に戦争への道を駆け下りていくことになる。 昭和14年9月3日、山本は連合艦隊へ、そして10月23日、井上も海軍中央を去った。新任務は支那方面艦隊参謀長である。この時の井上は己の義務を充分に果たし、信念を貫き通したことで、内心では莞爾たる微笑みを浮かべていたことであろう。 |