井上成美と昭和の海軍 ~海軍の栄光を守る~ |
「1、どこにお借金はなし 2、娘は高女だけは卒業させ、出来れば海軍士官に嫁がせしためし」 公務に言及せず、娘の将来の身を案じた簡潔なもの。これもまた井上の流儀、余計なことは言わないのである。 こうして海軍省側の主務の井上が、死を覚悟で決済を拒否し続けること3か月、しびれを切らせた軍令部側は、6月になって井上を通り越して、寺島軍務局長へ直接かけあうこととした。軍令部第一班島田繁太郎少将から商議を持ちかけられた寺島の態度も、軍令部の予想に反して強硬だった。 軍令部側はさらに藤田次官への商議へと格上げしたが、藤田の態度も同じように強硬だった。 ついに軍令部側の高橋次長が直接大角海軍大臣に折衝、さらに大角が伏見宮軍令部長に呼びつけられるという事態にまで発展した。伏見宮は大角を脅すように頼み込む。大角は八方美人の異名もあり、思想的にもロンドン軍縮会議調印に反対した艦隊派に属するものであった。 結局3月以来揉みに揉まれた商議の末、7月17日に海軍省主務局が不同意のままに、軍令部提示の改定案に海相が基本的に同意してしまった。8月上旬に、首相斎藤実や、侍従長鈴木貫太郎らも「現状のままが良い」と反対したが、すでに遅し。紆余曲折があったが、どんどんと細部を詰めての改定案作りが進められた。
「こんな馬鹿な案によって制度改正をやったという非難いっさいは、局長自ら受けるから、この案に君も賛成してほしい」 一課長に井上を抜擢したのは寺島その人。そして寺島は井上の将来を思いやっている。その人が肩に手を置いて懇切に頼むのである。しかし、井上はきっぱりといった。 「自分が正しくないと思うことに、私は同意できません。同意しろと言われるのは、この井上に節操を捨てろと迫られるに等しく、私は節操を捨てたくはありません。この案を通す必要があるなら、一課長を更迭して、この改正案に判を捺す人を持ってこられたらよろしいではありませんか。私としても、事態を紛糾させた責任は感じております。それに今日まで、正しいことの通る海軍と信じ愉快にご奉公してまいりましたが、こんな不正や理不尽が横行する海軍になったのでは、私自身も考えざるを得ません。はっきり申し上げれば、そんな海軍にはいたくありません」 言い終えると一礼して局長室を出た。そして軍服を背広に着替え、井上は海軍省を去っていった。その夜、鎌倉の家へ、次官の意を体した海軍省先任副官岩村清一大佐が、翻意を促しにやってきたが、岩村の切言に対しても井上は言い放つ。 「一時の興奮でやったことではないので、考え直す余地はない」 しかし、結局井上は海軍を去らなかった。いや、去れなかった。自分で勝手に辞めることは軍記違反となるからである。また、海軍が井上を必要としたのである。海軍は、9月20日に「横須賀鎮守府付」という、待命予備役の前提であるようなないような任に井上をつけたが、さらに二か月後の11月15日に練習艦「比叡」の艦長へ転じさせている。扱いづらい可愛げのない男であったが、その頭脳と冷めた眼をまだ海軍は必要としていたのであろう。
将官になっていなかった井上はかろうじて首がつながったが、寺島少将は翌9年3月に予備役に編入され、他にも山梨勝之進大将、谷口尚真大将、左近寺政三中将、堀悌吉中将らが次々に現役を追われている。 井上が職を辞する覚悟で反対した軍令部の権限拡大は、結果的にはロンドン会議以後の条約派対艦隊派の抗争に終止符を打ち、対米強硬派の艦隊派の優勢をより明白にしたこととなった。それは太平洋戦争への大きなきっかけの一つになったということもできる。それからわずか8年後の昭和16年、対米戦争突入か回避かの瀬戸際に際して、海軍中央の首脳に海軍省系出身者がいなかった事実をどう考えればよいのだろうか。 山本五十六も親友堀のクビを知り、自分も海軍を去る決意をしたのはこのときである。 だが、その希望通り山本や井上がこのとき去っていたら、米内・山本・井上と並び称され、戦後に輝かしかった海軍の栄光は、ほとんど消えうせたのではなかろうか。米内一人ではあまりにも「善玉海軍」を主張し抜くには役者不足である。その意味で、山本と井上の翻意は、彼らにとっては悲劇的だが、海軍の栄光を救ったことになる。 |