井上成美と昭和の海軍 ~主流派との衝突~ |
井上は当時大佐、軍務局第一課長である。少し前に、課長の内示があった時点で、軍令部次長高橋三吉中将に呼ばれてこういわれている。 「君は今度一課長になるが、自分はロンドン軍縮会議以来の海軍の陰惨な空気を一掃しようと思っている。ついては大いに君に助力してもらいたい。統帥権の問題などもあって改正しなければならぬと思う点も多いから、充分君にお願いする。これらのことはいまやらねばやれぬ・・・」 聞いていた井上は、これはゆゆしき事態と即座に思ったという。高橋の「いまやらねば」という「今」は、伏見宮が部長の時を意味していたことを察したのだ。皇族の権威のもとに、軍令部は海軍省に圧力をかけようとしているに違いない。海軍の根本を揺るがしかねない問題である。 井上の予感は当たった。海軍軍令部が、軍令部条例と省部互渉規定の改定案を、海軍省側に提示してきた。それが3月2日で、以後大もめにもめることになった。艦隊派の主軸である高橋は「もとより反対されるのは覚悟のうえ」と、反対があろうと何であろうと力で押し切る意思ははじめから明瞭であった。
「軍令部条例改定案」の要求は大きくいって3つあったが、なかでも問題なのは、これまでの条例の海軍軍令部長は「国防用兵に関することを参画し、親裁の後、これを海軍大臣に移す」とあるのを、軍令部総長は「国防用兵の計画を掌り、用兵の事を伝達す」と改めようとした点であった。つまり軍令部が国防用兵のすべてを掌握し、作戦行動の大命を伝達する。 また、「省部互渉規定改定案」は、これまで海軍省の権限に属していたことを、相当程度軍令部の権限に移そうとするもので、特に根本問題となるのは二点あった。兵力量の起案と上奏の権限を軍令部側に移そうとするものだった。これらは健軍以来不文律的に海軍省の主務とされてきたものである。 第二の問題点は人事行政にあった。これまで人事権は海軍大臣の主務、いわゆる「生命である」軍政事項とされ、参謀の進退に関してのみ、大臣が軍令部長に一応相談するよう決められていた。それを、兵科教官と艦船部隊指揮官の起案権まで軍令部に移そうというものだった。 いずれにしても良き海軍の伝統や慣習を無視し、根本の権限一切を軍令部に集約しようとした「叛乱」に等しい要求であった。しかも悪質と言える心理的圧力(皇族の威光)をかけて、この改正案を遮二無二に押し付けようとした。 井上はその責任において、この傍若無人の要求に徹底抗戦することにした。直属上長である海軍次官藤田尚徳中将と軍務局長寺島健少将に、はっきりとした自分の考えを述べ「どんな難題を軍令部側が押し付けて来ようとも、一課長が目下研究中であるからと、自分の方へ回してほしい」旨を頼んだ。一人で不埒な圧力をはねのけようという確固たる決心である。
井上は、それゆえに二年計画でこの問題に取り組み、充分に研究すべきであると広言した。そしてあらゆる憲法論を机上に積んで読みふけり、統帥権に関する論文を集めて研究に励んだ。ともかく二年の研究なくしては、「一切口をきかないからそのつもりで」と言い放ち、石の地蔵のように黙然として動かなくなった。 軍令部側からこの問題を主務とし、井上への交渉相手となったのがバリバリの艦隊派の、第二課長南雲忠一大佐である。海軍兵学校第三十六期、井上の一期先輩になる。艦隊経験が長く、潮風で鍛えた実戦派の闘将であった。東京の霞が関の赤煉瓦(海軍省部)で働くものを軽侮し、「赤煉瓦ども」「諸判例ども」とののしることを常とした。 その南雲が井上の部屋に、毎日のように靴音高く乗り込んできては「早く判を捺さんか」と怒鳴ったり、すかしたりした。井上は一言も発しない。ただじっと南雲を見据えるだけである。 「貴様みたいなやつは殺してやる」と脅しをかけ、伏見宮邸の観桜園遊会の席上、「井上の馬鹿、貴様なんか殺すのは何でもないんだ。短刀で脇腹をザクッとやればそれきりだぞ」と南雲が酒気を帯びて詰め寄ったこともあった。 井上はびくともしなかった。脅迫に負けて判を捺してしまえば、これからの海軍の進路を根本から誤らすことになる。海軍の軍令部が陸軍の参謀本部のようになり、統帥権を錦の御旗として独走するようなことになったら、それは国家の運命にかかわる。その信念を曲げることはできないのだ。 |