井上成美と昭和の海軍 ~暗雲立ち込める~ |
「井上さんにとっては、中央の頭の痛い重職を離れ、戦地とはいえ勝ち戦、しかも陸軍が主の支那事変、また麾下には第一、第二、第三遣支艦隊があって、それぞれ立派にやっているので、参謀長職は実のところ極めて閑な地位であった。しかも、物事の処理は理路整然、迅速という人であるから、私どもには、いかにものんびりと愉快そうな勤務ぶりでした」 その井上をして「二百五十キロくらいの癇癪玉」を落とさせるようなことが起こった。部下将兵の生命を的の作戦に関することである。その作戦とは昭和15年5月1日から実施されたもので、重慶の蒋介石政権を崩壊させるべく、四川省方面の中国空軍撃滅の為に敢行された大規模な航空戦である。これを百一号作戦というが、この作戦を巡って、またしても井上は厳しく海軍中央とやり合うことになった。 この作戦には零戦式戦闘機が初めて参加、大いに活躍したことで知られるが、8月6日、成果をさらに拡大させようと、参謀長の井上自らが東京へ飛んだ。翌7日午前、井上を迎えて省部の関係者十数名が参集した。軍令部第一部長宇垣纒少将が、意見承り役のような形で井上に対した。井上の要望は、この作戦のためのさらに大量の航空機の投入であった。 「この作戦は、日露戦争における日本海海戦にも匹敵するものであるとの認識のもとに、全力投入している。これを連続することで、日支問題の解決の目途を探る事ができると考える」 と語り継いで、さらにここで井上の語調が改まった。 「ところが仄聞するに、中央には、対支作戦の完遂を期するとしながらも、その上に第三国との開戦に備える動きがあるやに承っているが、万一そのような事実ありとすれば、もってのほかだ。支那事変だけでも重大な段階に突入し、その泥沼から抜け出す見通しすら立ちかねている現状で、さらに好んで第三国たる大国を相手に事を構えるが如きは、論外の沙汰である」 井上が言う第三国とはアメリカである。中央の対米強硬路線に対する猛烈な一撃であった。
海軍中央部は、作戦本位の独善的な危機意識の強い軍人の集団となっていた。ナチスドイツの電撃作戦に眼も心も奪われ、日独伊三国同盟の問題が再燃、それは7月22日に第二次近衛内閣が成立した瞬間から、もはや海軍内部でも止まらぬ勢いとなった。特にフランス、オランダの敗北に伴うアジアの資源地帯からの撤退は、自然と海軍部内の対米強硬派が抱く南進戦略を、千載一遇の好機として、より推進させることになった。 すなわち7月29日、「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」を陸海合意で決定し、この要綱に基づいて、三国同盟の締結と北部仏印への進駐という、「太平洋戦争への道」が既に敷かれていたのである。そこへ井上が飛んできて、いかにも弁じようと誰も耳を貸すものはいなかった。 8月18日、さらに井上を怒らせるような、軍令部発・支那方面艦隊司令部宛の電報が、旗艦出雲に着電する。 「第一連合航空隊を9月5日に内地に引き揚げさせるよう準備せよ」 兵力増強どころか、漢口へ進出中の主力航空部隊の引き揚げは、全作戦の中止を命ぜられたも同然である。しかも井上をさらに絶望し、激昂させる一行が続いていた。 「北部仏印作戦準備の為」 頭に来た井上は、上長の支那方面艦隊司令長官嶋田繁太郎大将に話した上、長官名で軍令部次長近藤信竹中将宛に、再度の意見具申電を発した。しかし、中国に対する援助ルートの遮断と、作戦上の必要から、海軍中央はすでに陸軍に協調して方針を固めていた。返事はありきたりのもので、当然覆るはずもなかった。 「詰めが甘かった。中央がそういう考えであると知りながら、最後のダメ押しをせずに十分判ってくれるであろうと思って帰ってきたのは手抜かりだった。責任はこの俺が撮る。海軍を辞めることとする」
9月5日、北部仏印進駐の奉勅命令が下され、外交交渉によって決められた通り、平和裡に軍を進めることとなった。だが、陸軍には強引に武力進駐を実行し、戦いを交えることで全仏印を占領してしまおうという謀略があった。そして予定通り昭和15年9月23日、協定を破って兵を進め、海軍の説得も無視し、仏印軍と交戦を開始してしまった。 9月25日、井上は海軍中央に、それまでの怒りを爆発させたかのような、抗議電報を送っている。 「支那方面艦隊としても対支作戦に死力を尽くしつつある此の際、かくの如き戦闘に兵力を晒すが如きは実に忍び難く、不逞分子の点火せる作戦への協力の如きは無意味なりとの見解を有す。よって、此の際大本営におかれても充分陸軍と連絡を取られ、かくの如き無名の戦争を惹起せしめざるよう此の上とも御努力ありたし・・・・」 「不逞分子」といい、「無名の戦争」つまり大義名分の無い戦いと、あえて井上は決めつけている。 さらに9月26日、陸軍護衛の為ハイホン沖にいた麾下の水雷戦隊が、陸軍が勝手に武力進攻を開始したため、さっさと引き上げたとの報告を受けたときの、井上の言ったこともまたいい。この水雷戦隊は敵地に友軍を置き去りにしたのである。にもかかわらず、井上は言い放った。 「そうか。それでよし」 井上が、北部仏印進駐がもたらすものを、心底から憂えていたことがよくわかる。 |