壮年期
 ~佐藤一斎に学ぶ~
 


 江戸遊学
天保4年(1833)長野豊山が松代を去った後、象山は江戸遊学の希望が藩主に容れられたので、江戸は出府することになり、師の鎌原桐山は激励の文を作って餞別した。松代藩士が文学修業の為遊学を許され、且つ学資まで給せられた例は過去になかったことである。
象山は鎌原桐山の斡旋により佐藤一斎の門に入った。当時江戸には碩学・大儒と称せられる者は決して少なくはなかった。その中にあって経学・文章並ぶ者なしと称されたのはこの一斎であったから、天下の英才は皆この門に入ることを欲したので、俊才・逸足の士が雲の如くに集まった。けれどもその頭脳が明晰で、しかも学術に専念することにおいて、象山の右に出る者はなく、遂に山田方谷と共に佐門の二傑と称されるに至った。
 陽明学か朱子学か
林羅山が朱子学を興して以来、林家の学は即ち幕府の学問となり、幕府の学問は即ち林家の学問であった。したがって林家の塾頭である一斎は朱子学を旨としておかねばならないはずなのに、内心では朱子学の学説を喜ばない風があり、密かに陽明学の学説に心酔していた。そこで朱子学を講じながらも、ややもすれば陽明学に触れてゆく傾向が窺われた。要するに聖堂の掟には従わざるを得ないので、表面は朱子学を奉ずると称しながらも、その実は陽明学を鼓吹していたのである。
象山は朱子学を以て正学と信じ、これに傾倒していた。幼児より易学を好み、天地万物の理を窮めることを楽しんだのは、早くも朱子学に入る素地をなしたものというべきである。したがって確固たる朱子学者であった象山が、陽明学を蛇蝎の如く嫌ったのも故無きの事である。
 大塩平八郎の乱
天保8年(1837)大塩平八郎の乱がおこると、これを陽明学がもたらす当然の現象とし、その弊害の恐るべきを説き、併せて学術の正しくなければならぬ所以を力説したほどで、徹頭徹尾朱子学を以て正当とした。したがって、一斉の説とは相容れない点が少なくなかった。そこで、「竹刀の上では君臣の別がない。したがって藩主であろうとも勝を譲るべきではない。また道理の上には師弟の別はない。学説が違っている以上、たとえ師であろうとも服従することはできない」と称し、陽明学に基づく一切の説に反対して一歩も譲らなかった。そればかりではなく、「陽明学は国家に害を及ぼすから、極力これを排除せねばならぬ。したがってこれから以後、経学は先生から御教授は受けたくありませんから、何率文章・詩賦だけ教えてください」と一斎に断って、経書の講演には一切出席しなかったという、まだ20歳を過ぎたばかりの田舎の書生が、天下一と称される大儒に向かって、思いのままに議論を上下したその息の壮んなる姿は、誠に痛快と言わねばなるまい。これは象山の朱子学における造詣の深いことを物語るもので、その識見の卓越し、その志の奪うべからざるもののある事を知るべきである。このように経学においては一斎の学風に服することができなかったがその文章に至っては深く推服し、詞は菅茶山、文は佐藤一斉、この両人は日本開闢以来の大家であると推称した。



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