聖徳太子の思想
 ~聖徳太子とは~
 


 太子の伝説
古代史で最大の英雄であり、日本仏教界からあがめられてきた聖徳太子。その事績ついての詳しい歴史的事実については詳細は不明であり、太子の著作とされてきた「憲法十七条」や「三経義疏」も、太子が本当に著した物ではないと言われている。それでも日本の仏教を見ていくうえで、聖徳太子の存在は欠くことはできない。
聖徳太子は厩で生まれたといわれる。その記述を「聖徳太子伝暦」で次のように記されている。
「入胎12カ月を経て、母は宮園内の厩の前で太子を生む。殿内に入った後、赤い光、黄色い光が西方より射し込んだ。太子には香気があった」
この「太子伝暦」には、他にいくつもの驚嘆させられる話が載っており、例えば2歳の時、「合掌し、東に向かって「南無仏」と唱え、再度礼拝した」とか、3歳の時には「花園に遊んだとき、「桃花は一旦の栄物、松葉は万年の貞木なり」と言って松葉を賞した」などである。これらは、後年の太子信仰の高まりとともに作成されたもので、事実とは言えないであろう。
 太子の略歴
実際には太子は、備達天皇3年(574)用明天皇を父とし、穴穂部間人皇女を母として生まれた。厩戸皇子、豊聡耳皇子、上宮太子の名を持ったといわれる。
当時、蘇我氏と物部氏の抗争は激烈を極め、用明天皇2年(578)蘇我馬子が物部守屋を倒して蘇我氏が勝利を得たものの、その後も天皇の位をめぐって陰惨ともいうべき抗争が続く。その6年後、推古天皇が天皇の位につくと、聖徳太子を摂政として万機を委ねたといわれている。数えで20歳の時。
太子は、高句麗から渡来した高僧の慧慈等に仏教の教理を深く学び、また儒教も学んで、当時の一級の学問を身につける。当時の東アジア諸国が仏教等を用いて先進的な文明国家を築こうとしていた状況をよく把握し、「三宝興隆の詔」を発したり、斑鳩寺、四天王寺等の寺院を建立したり、宮中などで「法華経」等の講義をしたと言われている。これらはすべて、当時の中国(随)等にならったものである。たとえば、隋の文帝は、591年に「三宝紹隆の詔」を発している。紹隆とは、受け継いで盛んにすることで、それまでの仏教導入の歴史を踏まえ、さらに仏教の学問・文化を発展させようとしたものであるが、日本ではその歴史がなかったため、興隆すなわち興して盛んにするとの言葉になったのである。
 仏教を通じて理想国家を
聖徳太子は、隋に遣隋使を派遣し、高度な文化・文明の摂取に努めるが、二回目の遣隋使の際、小野妹子に「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」云々と書かれた国書を託して、時の隋の皇帝・煬帝が激怒したという話はあまりにも有名である。その後、帰国する小野妹子と共に、隋から使いの裴世清一行が視察に来るが、彼らは日本において法興寺の立派な伽藍が建立され、仏像が鋳造されていることに感嘆したという。当時の日本で、仏教を巡る様々な基盤が着実に整備されていたことは間違いなかったのだろう。太子はその後も、優秀な人材を隋に送って、その後の日本社会の礎を築いていったのである。
太子の35歳から10数年間の事績はほとんど空白になっている。これは、この間に「三経義疏」の撰述につながる仏教の勉強に専念していたのではないかとも考えられる。
推古天皇30年(622)48歳の時、太子は世を去った。その葬儀に際して、新羅は使いを遣わし、仏像をはじめ数々の贈り物を届けたといわれる。太子の業績が近隣諸国でも評価されていたことの証明であろう。
太子の生涯からすると、彼は決して自ら天皇になろうとはせず、しかし国際的な感覚の中で、仏教を中心とした文明国家を築くべく一心に努力していたという姿が浮かび上がってくる。蘇我氏の強力な権勢と横暴を巧みにかわしながら、理想的な国家の建設を仏教を通じて邁進していたのだろう。

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