少年時代の危機意識
 ~11歳で藩主に講じる~
 


 山鹿流師範の家を継ぐ
天保5年(1834)松陰は叔父吉田大助の仮養子となり、翌年4月に大助が病没すると6歳にして吉田家の家督を継ぐことになった。このとき、叔父の名にちなんで通称を虎之助から大次郎に改めている。家格は杉家より上の「大組」で家禄は倍の57石、山鹿流兵学師範として毛利家に仕える家であった。兵学者松陰の人生がここに始まったのである。もちろん、まだ松陰は幼少であった為、玉木文之進らが家学教授の代理を務める一方、松陰を厳しく育て上げていった。4年後、10歳で家学教授見習として明倫館に出勤。翌年には山田宇右衛門たちを後見人として家学教授を始めている。宇右衛門は吉田大助の一番弟子で、文之進とともに松陰の教育に特に力を注いだ人物である。
天保11年(1840)22歳の若き長州藩主・毛利敬親(当時は慶親)がお国入りし、「親試」を行うべく文武師範を城中に召すと、11歳の松陰は山鹿流兵学の祖・山鹿素行が記した「武教全書」を講じ、その巧みさを高く評価された。11歳の松陰は教え込まれたままの内容を一生懸命暗唱しただろうが、実際に講義録を読んでも松陰ならではの独自性はまだ見られないが、それでも年端もいかない少年が、藩主の前でも臆することなく見事に講じて見せたのである。
 藩主の前で講じた内容
ここで松陰が論じたのは「戦法」篇、中でも「三戦」についてであった。すなわち、①機先を制するにはどうするか、②備え充分の敵にはどうすれば勝てるか、③奇兵をどう用いるか、の三点である。
① 機先を制するにはどうするかについては、それは敵よりも先に動くことを意味するのではないかと論じている。むしろ、鍛錬を怠らずに万端準備し、敵の動きに応じて好機を逃さないことである、と。山鹿流ではそれを「孫子」軍形第四にいうところの「先ず勝ちて後に戦ふ」であると捉えていた。またその際に重要になるのは、「孫子」虚実第六の「先ず戦地に処りて敵を待つ者はいっす」であった。先に地形上有利で勝つべき土地(=戦地)を占領し、敵を待ち受ければ優位に立つというのが、この時点で松陰の学んでいた兵学であった。
② 備え充分の敵にはどう勝つかについては、松陰は機先を制しても勝てないことがあり、その時は早まらずに急がずに、二番手、三番手の手段を講じよ、とした。その極意について山鹿流では「孫子」軍争第七には「人に後れて発し、人に先立ちて至る」、兵勢第五には「正を以て合し、奇を以て勝つ」、虚実第六には「人を致す」とある、と指摘している。つまり、相手が強敵で後れを取ったとしても、誘い寄せたり怒らせたりして疲れさせ、正兵をぶつけて相手と組みあっているうちに、二番手、三番手と奇兵を用いれば勝ち得る、結局それは相手に先んじたことになるのだ、と。
③ 奇兵をどう用いるかは、正兵がぶつかり合っている間に横合いから奇兵で攻撃するのが基本だが、そればかりではなく、不意を突いたり敵の驕りを利用したりするのもこれに当たるという。松陰はまた、強い敵であれば一気に倒そうとはせず、むしろ和を乞い、謀を用いて油断を誘ってから隙を突くということだと述べた。
杉家の家風とは
この時、松陰の講義ぶりに感心した敬親がその師を訪ねたところ、傍の者が「玉木文之進」と答えたという。杉家は、父の百合之助をはじめ、学者となった吉田大助や玉木文之進はもちろん、一家で学問を大切にしていたのである。
日本人で初めて吉田松陰の伝記を公刊した徳富蘇峰は、松陰の事を「杉氏家庭の子」として描いている。松陰が子供の頃は、家が必ずしも裕福でなかったこともあって、ほとんど農民と同じような田畑に出て生活していた。「半士半農」とはいうものの、生活ぶりを見るとほとんど「農」の色合いの方が濃かったように思われる。ただ、武士としての誇りと学問を愛する家風があり、幼いころから躾に厳しく、吉田家を継いだ松陰に至っては拳骨で文字通り学問を叩き込まれることになった。
杉家の人々は晴耕雨読の日々を送っていたが、雨の日のみならず、晴れの日にも田畑に書物を携えて出て、兄弟に古典を暗唱させた。松陰は松陰で、妹や弟の面倒を見て、教育していったのである。
幼いころの松陰は、5,6歳の頃から勉強ばかりして、母親からすれば手のかからない子供であった。習字や読書が好きで、他所の子供たちが遊んでいても見向きもしなかったという。そんな松陰の唯一の遊びが「土図」だった。一人庭に出て、こてを使って土を練り、山や川を造るのである。単なる土遊びと言ってしまえばそれまでだが、後に成長した松陰が、旅の中で兵学者として道々の地理の観察を怠らなかったことを思えば、地形をよく把握する訓練になったであろう。
ところで、地理の訓練といえば、「見る」という行為を松陰は段階ごとに区別して教わった。つまり、「見る」行為には三種類があるのであって、「視」とは形の上を見ること、「観」とは形についてその元を見ることであり、「察」とは一段踏み込んでその源を見ることを意味したのである。早くからそうした教えは、成長するに伴って彼の血肉となっていくのであった。




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