松陰の趣味・嗜好
 ~飲酒~
 


 酒は嗜むが
飲酒については、煙草を毛嫌いするほどではないが、やはりあまり歓迎してはいない。獄中の読書で、アメリカに禁酒禁煙の会があることを知り、大いに意を強くしているが、酒も煙草も損ありて益無しという点が、強調されたようだ。もっとも、煙をやたら周囲にまき散らす煙草に比べたら、祭りや宴会に供される酒は、もう少し益があると考えた。
妹千代によると、松陰は「別に酒を飲まず、煙草も吸わず、至って謹直なり」といい、また塾生の天野御民も「先生酒を飲まず、煙草を喫せず」と回想しているが、必ずしも正確ではない。日常的に酒を飲まない、つまり酒飲みではなかったが、時と場合によって皆と一緒に杯を交わすことを格別嫌がってはいない。
九州遊歴に始まる旅の空で、友人たちと飲酒した記事はいくつもある。また、下田踏海の頃は、国禁を侵して密航を企てるという大それた事件の前だけに、気分高揚して何かと酒を飲む機会があり、松陰も結構これに応じている。友人たちに密航の決意を打ち明けたのは、江戸京橋の伊勢本という酒楼であるが、事が事だけに、松陰を含めた参会者が大いに飲みかつ論じたのは間違いない。翌日、見送りに来た永鳥三平や鳥山新三郎らとは、品川の武蔵屋という酒楼で、改めて別れの杯を交わしている。
 意外と酒好きなんじゃん(笑)
神奈川で一夜、酒楼に漁師を招き酒を振舞い、大金を与えたのは、夷船に乗り込むための方便であるが、事がうまく運ばず、出張中の佐久間象山を訪ねて相談した。「象山営にて酒を酌み談話す」というのは、夜晩くまで師弟が飲みながら計画を練ったものである。また「金川台に至り酒楼に登り、ことさらに宴会し」というのは、夜更けを待って漁師の舟を盗み、同行した金子重之助と沖へ漕ぎ出そうとしたのであるが、二人を怪しんだ村の群犬に吠えられて成功しない。ともかく、酒が嫌いなどころか行く先々で飲んでいるから、案外酒好きなんじゃん、松陰。(笑)
江戸伝馬町牢や野山獄では、囚人たちが酒を買って飲むことができたらしく、松陰もまた、酒を飲み身体が暖かいとか、酔いで顔が赤くなり同囚に笑われたというような歌や俳句が残っている。ただ、獄中の飲酒は量が過ぎると囚人たちのすさんだ気持ちをさらに掻きたて、しばしば喧嘩のもとになった。これを好ましくないと考える松陰は、「獄中断じて酒を用いるを許さず。酒は損ありて益無し」と言ったのは、そのためである。

 しばしば酒宴を催す
村塾での飲酒についてはどうだったのだろうか。
塾生たちが江戸や上方へ旅立つときは、ほぼ例外なく送辞を書き、別杯を交わしており、また老中間部詮勝襲撃を企て、十七士の血盟を結んだときなどは、率先して酒を酌み気勢を上げている。野山再獄前日の集まりの時は、怒り心頭に発した参会者が夜遅くまで飲みかつ騒いだというが、松陰もその中にいた。二十数名の塾生たちが会した別宴では、さらに盛り上がり、日頃酒を飲まない松陰も、連日杯を傾けている。獄中から「投獄後、酔余未だ解けず、一睡して晩に達す」「酒気未だ解けざる内明け申し候」と書いたのは、珍しく二日酔いの症状を呈していたのだろう。
松陰はもともとそんなに酒量は望めなかったらしく、少し酒が入るとすぐ真っ赤な顔になっている。飲めない分、あまり酒席が好きではなく、従って酒に溺れるようなこともなかったようだ。酒を飲むとすぐ大言壮語し、酒乱の傾向があった助教の富永有隣は、何度も禁酒宣言を繰り返していたが、塾生たちの中にも絶えず酒杯を離さず、酔いに任せて激言し、乱暴する者が少なくなかった。生真面目な松陰はこれをひどく嫌い、そうした塾生たちにしばしば禁酒を求めている。
安政6年(1859)2月の入江杉蔵宛手紙で、下戸の自分が上戸の君らにいうのは笑われるかもしれないが、古来、酒と女に溺れて成功した例は一度もない。どうか大事を為すため「足下も佐世も酒婦人を以て愉快を助くることは必ずやめてくれたまへ、然しざれば必ずことを損ずるなり」というのは、塾内で兼て酒豪の評判の高かった二人に、厳しく禁酒を迫ったものである。東北旅行中の江端五郎の酒癖の悪さにも随分手を焼いたし、野山獄に来た岡部富太郎にはこのことを三度口にしようとしたが言えなかった。ぜひ彼にも禁酒するように伝言してほしい。永久に禁酒せよとは言わないが、少なくとも、今はその時にあらずというのが、松陰の主張だった。




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