松陰の趣味・嗜好
 ~嫌煙家~
 


 禁煙論の先駆者?
幕末の志士にしては珍しく酒や煙草に興味のない松陰は、これに溺れる人々を厳しく戒めているが、特に煙草には何故か甚だしく嫌悪感を示し、早くから禁煙論を唱えている。土地を無駄に使い、農業生産の妨げになり、煙草を吸ってものどの渇きを癒したり腹の足しにならないどころか、その煙や脂は周囲の人々の迷惑になるだけであるという。今日の禁煙論者が聞いたら大喜びしそうなセリフであるが、江戸時代ではむしろごく少ない珍しい主張だった。小さなころから煙草嫌いであったというから、彼の周りにはとんでもないヘビースモーカーが何人かいたのだろうか。喫煙の習慣が「士風を敗る」というのは、もう一つ理解しがたいが、むろん健康問題などではなく、役者絵にある斜に構えスパスパ煙管を燻らせる、いかにも遊び人風のスタイルが宜しくないということだろうか。真面目一方の松陰らしく、喫煙者を見つけると、その害を盛んに言い募り、何とか喫煙させようとしたが、余り効果が無かったようだ。
 喫煙の害を解いて煙たがられる(笑)
九州遊歴の旅の空で、腹痛を起こし旅宿で横になる本を読んでいたとき、たまたま「経世文編」の中に、禁煙は煙草の栽培を禁ずることで容易にできるという一節を見て、わが意を得たりと喜んでいる。つまり、お上の手で栽培を断固禁止すれば煙草は自然になくなるというのだが、強勢や押し付けを廃する松陰らしくはない。いささか安直な議論であることは否めない。松陰自身は煙草の煙や臭いが我慢できず、そこから色々マイナスポイントを探し出していたようだ。
喫煙の害は、安政4年(1857)冬、村塾で士風を論ずる際、取り上げられている。入門したばかりの岸田多門14歳が盛んに煙草を吸うのを心配する松陰に応えて、その場にいた塾生たちが、禁煙の誓いを立てた。まず吉田栄太郎17歳が煙管を折って、今から禁煙しますと宣言し、これに増野17歳、市之進14歳、溝三郎14歳らが応じたものである。助教格の富永有隣は、すでに39歳の立派な大人であり、今更禁煙するような年齢でもないが、その場の雰囲気に釣られたのか、煙管を松陰に差し出し折ってもらった。
翌日、これを聞いた岸田は、泣いて禁煙を誓い、喫煙用具をすべて家に送り返している。また高杉晋作19歳は、16歳から煙草を始め、すでに3年の経歴の持ち主であったが、たまたま愛用の煙管をなくしたこともあって、塾生たちの禁煙同盟に参加を宣言し、わざわざ「煙管を折るの記」と題する一文を草して先生に提出している。
彼らの禁煙宣言を大いに喜んだ松陰は、これを村塾全体に拡大するため、出入りする塾生たちのうち煙管を携えている者がいると、すぐさまこれを取り上げ、紙縒りで結んで吊るしたというから、塾内では完全禁煙が実施されたわけである。だが、塾生たちが真の意味で禁煙していたかは謎である。禁煙宣言をしつつも、しばらくすると松陰先生の目を盗んで吸い始め、いつの間にか元の木阿弥に戻ったかもしれない。




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