松陰の趣味・嗜好 ~嫌煙家~ |
喫煙の害は、安政4年(1857)冬、村塾で士風を論ずる際、取り上げられている。入門したばかりの岸田多門14歳が盛んに煙草を吸うのを心配する松陰に応えて、その場にいた塾生たちが、禁煙の誓いを立てた。まず吉田栄太郎17歳が煙管を折って、今から禁煙しますと宣言し、これに増野17歳、市之進14歳、溝三郎14歳らが応じたものである。助教格の富永有隣は、すでに39歳の立派な大人であり、今更禁煙するような年齢でもないが、その場の雰囲気に釣られたのか、煙管を松陰に差し出し折ってもらった。 翌日、これを聞いた岸田は、泣いて禁煙を誓い、喫煙用具をすべて家に送り返している。また高杉晋作19歳は、16歳から煙草を始め、すでに3年の経歴の持ち主であったが、たまたま愛用の煙管をなくしたこともあって、塾生たちの禁煙同盟に参加を宣言し、わざわざ「煙管を折るの記」と題する一文を草して先生に提出している。 彼らの禁煙宣言を大いに喜んだ松陰は、これを村塾全体に拡大するため、出入りする塾生たちのうち煙管を携えている者がいると、すぐさまこれを取り上げ、紙縒りで結んで吊るしたというから、塾内では完全禁煙が実施されたわけである。だが、塾生たちが真の意味で禁煙していたかは謎である。禁煙宣言をしつつも、しばらくすると松陰先生の目を盗んで吸い始め、いつの間にか元の木阿弥に戻ったかもしれない。 |