少年時代の危機意識 ~松陰の対処策~ |
数え17歳の若き松陰がいち早く記した対外的脅威への対処策に、同年閏5月17日の「異賊防禦の策」がある。亦介に学んだものの、松陰の念頭にあったのはいまだ「防禦」であり、こちらから積極的に海外に関わっていく道ではなかったということだろう。冒頭で、「孫子」九篇第八から「兵を用ふる法は、其の来らざるを恃むことなく、吾が攻むべからざる所あるを恃む」を引用した彼は、敵がいつやって来てもよいような備え、敵が攻めて来られないような態勢がこちらにある事が必要であるという大原則を示した。
この時の松陰が西洋の軍備ついて充分な知識があり、彼が実際に敵を防ぎうる策を示せたかどうかなどとあげつらうのは間違っている。大切なのは、そのような無い物ねだりなどではなく、彼が示している兵学の理の適否の方であろう。そう見ると、松陰が平時にきちんと軍備を整えておくという常識に終始して、敵が攻めてくるはずがないとか、精神力で相手に勝てるとかいう非現実的なことを言っていないことは諒解できる。しかもそれに加えて、「孫子」のような兵学と、「孟子」のような経学(あるべき政事について論じた、為政者の為の学)とを既に密接に関連付けて捉えていることも、この先の彼の思想展開を考えれば注目すべきであろう。それは、彼が学んだ山鹿流兵学の一つの特徴であった。二百年ほど前、戦国時代の残照の中で紡がれた泰平の世の兵学は、松陰の代になっていよいよ現実の脅威を迎え撃ち、その是非を試されることになる。
実際、閏5月27日にはビドル率いるアメリカ艦隊が浦賀に現れて通商を求めてきたのを始め、この頃には西洋各国の船が各地に出没するようになっていた。そのような時勢にあって、松陰は時間を浪費させるものだとして、詩文や書画のようなものを趣味として一息つくことさえ自らに禁じるようになり、ひたすら兵学修業に明け暮れたのである。 |