少年時代の危機意識
 ~松陰の対処策~
 


 異賊防禦の策
松陰は弘化3年(1846)3月に山田亦介から長沼流兵学の免許を受け、長沼流の兵法書「兵要録」を与えられた。その際、これは叔父・吉田大助の遺志でもあるとして、「現在、西洋の賊がしばしば海を騒がせ、我が国は厳戒状態にある。空想空論にひたる時ではない」と、さらに発破をかけられている。また、佐藤寛作にも長沼流を学び、飯田猪之助には西洋陣法を習い、守永弥右衛門からは荻野流砲術の伝授を受けた。
数え17歳の若き松陰がいち早く記した対外的脅威への対処策に、同年閏5月17日の「異賊防禦の策」がある。亦介に学んだものの、松陰の念頭にあったのはいまだ「防禦」であり、こちらから積極的に海外に関わっていく道ではなかったということだろう。冒頭で、「孫子」九篇第八から「兵を用ふる法は、其の来らざるを恃むことなく、吾が攻むべからざる所あるを恃む」を引用した彼は、敵がいつやって来てもよいような備え、敵が攻めて来られないような態勢がこちらにある事が必要であるという大原則を示した。
 備えと態勢
では、具体的にどんな備え、態勢が大切であるのか。松陰は、①適材適所の人材登用が行われていること、②武器が機能する状態である事、③兵士の演習がなされていること、④各兵科が実際に用いえること、の四つを挙げている。松陰はそのうえで初めて軍備を充実させること、すなわち⑤軍団を実戦配備し、⑥兵糧を貯蔵し、⑦軍馬を育てることの三つを説いたのだ。さらにその本は藩主が仁義を持つことであるとも付け加えている。
この時の松陰が西洋の軍備ついて充分な知識があり、彼が実際に敵を防ぎうる策を示せたかどうかなどとあげつらうのは間違っている。大切なのは、そのような無い物ねだりなどではなく、彼が示している兵学の理の適否の方であろう。そう見ると、松陰が平時にきちんと軍備を整えておくという常識に終始して、敵が攻めてくるはずがないとか、精神力で相手に勝てるとかいう非現実的なことを言っていないことは諒解できる。しかもそれに加えて、「孫子」のような兵学と、「孟子」のような経学(あるべき政事について論じた、為政者の為の学)とを既に密接に関連付けて捉えていることも、この先の彼の思想展開を考えれば注目すべきであろう。それは、彼が学んだ山鹿流兵学の一つの特徴であった。二百年ほど前、戦国時代の残照の中で紡がれた泰平の世の兵学は、松陰の代になっていよいよ現実の脅威を迎え撃ち、その是非を試されることになる。
兵学修業に明け暮れる
この年の春、松陰は山田宇右衛門から、「今のような世にあっては、細々と経書やその注釈書を読むより「坤與図職」等を読んで世界情勢や夷狄の実態を知ることが実学である」との教えを受けていた。「坤與図職」は蘭学者箕作省吾の作、西洋の地誌を用いてまとめた世界地理書である。宇右衛門の言葉に憂いを深めた松陰は、食事も忘れるほど「いかにして国を守るか」という問題に没頭したのであった。
実際、閏5月27日にはビドル率いるアメリカ艦隊が浦賀に現れて通商を求めてきたのを始め、この頃には西洋各国の船が各地に出没するようになっていた。そのような時勢にあって、松陰は時間を浪費させるものだとして、詩文や書画のようなものを趣味として一息つくことさえ自らに禁じるようになり、ひたすら兵学修業に明け暮れたのである。




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