少年時代の危機意識
 ~様々な勉学~
 


 海外情勢の激変
天保13年(1842)玉木文之進は、独立して松本村新道の自宅に私塾を開き、「松下村塾」と名付けた。後に松陰の下に数々の俊傑を輩出することになる、松下村塾の始まりである。松陰もまた、叔父の塾生として通った一人であった。この年、松陰は親試で再び「武教全書」を講じたが、海外では大事件が起こっていた。
日本とは海を隔てた隣国の清国で、アヘン戦争が勃発。清とイギリスの戦争だが、清が大敗を喫し、南京条約を結ばされたのである。上海など五港の開港と香港の割譲、従来の独占的貿易体制の廃止、関税率の設定、多額の賠償金支払いなどがその内容であった。それにフランス、アメリカも続き、西洋列強による侵略の危機が明らかになったのである。情勢を見た幕府も、強硬な異国船打払令から宥和的な薪水給与令へと転じることとなる。
 武経七書を学ぶ
天保15年(1844)9月7日、松陰はまたしても親試で「武教全書」を講じたが、この時はそれだけでは終わらなかった。見事な講義に感心した敬親は、さらに彼の実力を試そうとしたのだろう。特に命じて「孫子」虚実第六を講じさせたのである。この求めに松陰は見事に応え、特に賞されて褒美に「七書直解」全部14冊を賜ったのであった。「七書」とは武経七書、中国の宋代に選定された中国兵書の代表的な古典である「孫子」「呉子」「尉繚子」「六韜」「三略」「司馬法」「李衛公問対」のことであり、「七書直解」はそれに明代の学者・劉寅が註釈を施したものである。兵学者としては、取り揃えて座右に置きたい基本書であった。藩主からの激励に感激した松陰が、喜び讃える周囲の言葉にむしろ恥じ入り、ますます勉学に打ちこむことになったのは言うまでもない。
山田亦介に学ぶ
翌弘化2年(1845)、松陰は山田宇右衛門の勧めで長沼流兵学者山田亦介の門をたたいた。諸学を兼ね修めるのが、山鹿流の流儀であったからである。亦介は、長州藩の改革派の長老・村田清風の甥で、松陰の叔父吉田大助とも親交があり、後に「海防憶測(ロシアに対する防備を説いた著)」を印刷・配布した咎で一時閉居する事になる人物である。彼は松陰を書斎に招き入れるや、次のように語った。
「近頃ヨーロッパが日を追って盛んで、東洋を侵食している。インドがまずその毒を被り、清朝が続いて屈服せられた。その炎はまだやむことなく、琉球を食らおうとし、長崎にまで来た。天下の人士が悩み考え、防御こそ急務であるとしているが、夷狄が東を侵してきたのは、彼らを優れた指導者が率いているからに違いないことがわかっていないのだ。優れた指導者がいる国は必ず強く、そういう強い国には敵わない。長大な戦略を立てるなら、敵が準備する暇を持てないようにすべきなのに、なぜ防禦の事ばかり細々というのか」
亦介は続けて神功皇后、北条時宗、豊臣秀吉と言った名をあげ、よく学んで勲功を立てるよう激励したのだった。松陰は、清朝を破ったアヘン戦争の司令官如きを相手にするのに、日本史上の英雄を並べ立てたことには違和感を覚えながらも、時宗や秀吉になるのは容易ではないと思わずにおられなかったのである。しかし、亦介が言いたかったのは、沈滞して消極的であった人心が優れた指導者の下に興起して積極的なものになることであった。
いじれにせよ松陰は、アヘン戦争が起こったことを知り、この次は日本に西洋列強の手が伸びるのではないかという現実的な危機感を抱きながら兵学修業を積んでいくことになった。この時点ですでにイギリスやアメリカ、フランス各国が琉球や長崎をはじめとする各地に出没しており、通称相手国であったオランダからもこれに応じて皆とを開く必要が説かれていたのである。




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