少年時代の危機意識 ~様々な勉学~ |
日本とは海を隔てた隣国の清国で、アヘン戦争が勃発。清とイギリスの戦争だが、清が大敗を喫し、南京条約を結ばされたのである。上海など五港の開港と香港の割譲、従来の独占的貿易体制の廃止、関税率の設定、多額の賠償金支払いなどがその内容であった。それにフランス、アメリカも続き、西洋列強による侵略の危機が明らかになったのである。情勢を見た幕府も、強硬な異国船打払令から宥和的な薪水給与令へと転じることとなる。
「近頃ヨーロッパが日を追って盛んで、東洋を侵食している。インドがまずその毒を被り、清朝が続いて屈服せられた。その炎はまだやむことなく、琉球を食らおうとし、長崎にまで来た。天下の人士が悩み考え、防御こそ急務であるとしているが、夷狄が東を侵してきたのは、彼らを優れた指導者が率いているからに違いないことがわかっていないのだ。優れた指導者がいる国は必ず強く、そういう強い国には敵わない。長大な戦略を立てるなら、敵が準備する暇を持てないようにすべきなのに、なぜ防禦の事ばかり細々というのか」 亦介は続けて神功皇后、北条時宗、豊臣秀吉と言った名をあげ、よく学んで勲功を立てるよう激励したのだった。松陰は、清朝を破ったアヘン戦争の司令官如きを相手にするのに、日本史上の英雄を並べ立てたことには違和感を覚えながらも、時宗や秀吉になるのは容易ではないと思わずにおられなかったのである。しかし、亦介が言いたかったのは、沈滞して消極的であった人心が優れた指導者の下に興起して積極的なものになることであった。 いじれにせよ松陰は、アヘン戦争が起こったことを知り、この次は日本に西洋列強の手が伸びるのではないかという現実的な危機感を抱きながら兵学修業を積んでいくことになった。この時点ですでにイギリスやアメリカ、フランス各国が琉球や長崎をはじめとする各地に出没しており、通称相手国であったオランダからもこれに応じて皆とを開く必要が説かれていたのである。 |