松陰の死生観
 ~常に未来を見つめて~
 


 旅路にて
松陰が明倫館教授時代に提出した上申書などを見ると、なかなかの文章である。相当の学問がなければかけないようなものである。しかしそこには、青春の気に溢れた何物かがある。希望にあふれた人生の門出を思わせるような。
松陰は、その前途に大きな希望を抱いて、平戸の葉山佐内のもとを訪れる。そして、その師によって広い世界に眼を開いた。それは15,16歳の頃、師の山田亦介から聞かされたよりも遥かに奥深いものであり、また具体的なものだった。
長崎に立ち寄った時、彼は読み得る限りのヨーロッパ関係の本を読み、購入できるものはそれを求めて萩へ帰った。その翌年は藩主の供をして江戸に出ることになる。
そこには、さらに大きな学問の世界があった。松陰は、昌平黌に通い、山鹿素水について学び、また安積良斎・佐久間象山の門をくぐった。素水は、山鹿流軍学の総本山ともいうべく、良斎・象山は、当時第一級の学者だった。
素水の門で知り合った肥後藩の宮部鼎三は彼の終生の友となった。こうして江戸に出た松陰は、魚が水を得たように心を弾ませて日々を送ったものである。この頃彼は自分の学問の至らざる事を憂えて、色々と悩んでいる。
だがその悩みは決して、彼の人生を否定するような憂悶ではない。更に進むべき未来を見つめての懊悩であった。ついに彼はより大きな目標を定めて、宮部鼎三と東北の旅に出る。
この時の松陰は、藩の関所手形を持たずして旅に出る。当時では脱藩を犯したことになる。脱藩が藩に知れれば、それは追手が向けられ、その場で切り殺されてもやむを得ないというのが従来のしきたりであった。松陰に追手がかからなかったのは、親友の米原良蔵が、その出奔をうまく取りつくろってくれたからである。おかげで松陰は無事に水戸藩までたどり着くことができた。
この行為は非常に深刻な行為である。つまり、死を決しなければできない行為なのである。だが、この時の松陰にはいささかも死の事が念頭に浮かばなかったようである。友人の宮部鼎三と、まだ見ぬ東北地方の状況を知ることに胸を震わせていたと言ってよい。またこの時は、友人安芸五郎(江幡五郎)の仇討への同行に、渾身の友情を傾けていた。極めて楽観的なのである。旅の辛さが身に染みることはあっても、心はいつも前方に向いていたのだ。
 常に前向きな松陰
松陰は、脱藩行為によって藩庁から帰国命令を受け、萩へ護送されるときになっても、その身の終末について考えたことはない。「昨日は雲上の鶴、今日は籠中の鶏」と自嘲することはあっても、それはあくまでも現実をいかに生きるかという一つの表白に過ぎない。
松陰が死を決してやろうとしたのは、アメリカ艦によって海外へ脱出しようと試みたことに始まる。あのとき、松陰にその脱出を示唆したのは佐久間象山であったが、多くの友人は反対した。
特に宮部鼎三は、涙を流して松陰にその挙をやめさせようと説いたものである。このとき、松陰は自らの意中を、そこにいた数人の友人たちに示したものである。それは、「冨獄崩ると雛も、刀水つくと雛も、亦誰か之を移易せんや」というものだった。たとえ富士山が崩れ、利根川の水が枯れてしまうことがあっても、私は自分の考えは変えないつもりだと宣言したのである。そして、最初から首を鈴ヶ森の刑場に晒す事が目的なのではない。あくまでも脱出に成功してアメリカに渡ることであるのだと。
だがその目的の達成は、衆目の見るところ十中八九見込みがない。一、或は二の確率に挑むのである。決死の覚悟で此れにあたるのである。死の影がチラホラと見えてくるのも当然である。
 死を恐れない松陰
しかし、この時の松陰はそうした思いをはねのけ、まっしぐらに前進するのみだった。だが松陰は失敗する。折からの風波を凌いでの着艦であり、決死の嘆願であったが、それは許されなかった。
松陰は空しく、下田の浜辺に送り返されるのである。送り届けた米兵は、格別に夜陰を選び、人家から離れた場所を選んで、松陰らが無事に姿を消す事を期待した。しかし彼はこの時、役人の目を掠めて逃げようなどとは思っていなかった。
村長のもとに名乗って出て、下田の役所に通報を頼んだのである。これは、赤穂浪士たちの行動とどこか似ているかもしれない。浪士たちの場合は、目的は達したものの天下の大罪を犯したのである。松陰は目的を達成し得ない上に、天下の大罪を犯しているのだ。
天下の大罪を犯した者の前にあるのは、切腹か梟首であろう。浪士たちが何故にあの泉岳寺で腹を斬らなかったか、というのと同じことが松陰にも言える。何故に松陰は、あの海岸で腹を斬らなかったのか。「人事を尽くして天命を待つ」という山鹿素行の哲学が、松陰の指導の根本にあったのだろう。それは死に方に重点を置くよりも、生きることに重点を置く哲学であったのだ。それは、泰平の時代を生きてきた儒教の裏付けられた武士の死生観と言ってもよかろう。




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