兵学修業と情報活動
 ~九州へ~
 


 平戸への遊学
松陰は、平戸の葉山佐内、長崎の久松土岐太郎の下でさらに兵学修業を積む名目で、10カ月の予定で九州へ旅立った。葉山は平戸藩の家老、同じ山鹿流の兵学者であり、海防問題に見識を持っていた。また、久松は近代砲術の祖として知られる高島秋帆の弟で、御鉄砲方であった。
実際に藩に許可願を出したのは海岸防備の実情調査に参加したすぐ後のことであり、それから1年ほど経ってようやく暇乞いを許されたという事になる。当時の事情を考えれば、藩の兵学者として役立つよう求められ始めたばかりで、そう勝手に藩を留守にするわけにはいかなかったということであろう。
松陰はその旅行記の冒頭に、「発動の機は周遊の益なり(旅行することで、思考を広げ心を動かす弾みとなる)」と記している。(西遊日記)本人にしてみれば、「水陸戦略」で自分の知識の足らざる所を自覚し、ついで海防の現実を目の当たりにしただけに、もっと広く知識を求めなければまだまだ役に立てないという気持ちが強かったようである。平戸には萩よりも海外の情報が入って来ていたし、山鹿流兵学の宗家でもあることから、もうそこで直接外国の文物と接することも不可能ではなかった。松陰は、この道中の地理や海防の実態について見分を広げていくとともに、萩では手に入らないような珍しい書物を求めて、海外とりわけ西洋からの知識を吸収していくのである。
8月25日早朝、従者新介と共に出立した松陰は、まずは馬関へ向かった。ところが、初めての自由な旅に張り切り過ぎて、歩き詰過ぎたためか、松陰は早速足を痛めて馬に乗らざるを得なくなり、また微熱を発して26日から28日まで馬関に滞在することになってしまった。散々な出だしではあるが、関門海峡を越えればもう他所の藩であるからと留められ、慎重を期したようである。
 九州旅行記
29日に旅を再開した松陰は、関門海峡を渡って内裏(門司)に到着。浜辺の松林を歩いて立ち寄った店先で小休止すると、早速当たりの地形を眺めながら頭の中で思考実験を始めた。
この地のために外敵を防ぐ上策を論ずると、負けたと見せかけて敵を陸地に誘い込んで勝つのが良い土地である。道端には松がびっしり立っていて、敵の砲弾の邪魔になり、内へ入ると水田に泥濘で敵の隊列が乱れるだろう。物資や集落はないから、敵が焼いたり略奪したりする物もない。山が高く、敵もすぐに拠点にはできない。それゆえ、敵を上陸させれば我が方に有利である。しかし、敵も利害を悟って決して上陸するまい。
というような具合に、松陰の道中記は続くのであるが、以降その道中記を見ながら、松陰の九州行きを追っていく。
30日、前日に小倉城を通って黒崎に宿した松陰は、長崎を目指してこの日は内野まで進んだ。道中、大宰府の山伏が、投機の相場師の依頼で風雨を招く祈祷を行った咎でとらえられたといういかがわしい噂話を耳にした松陰は、謀反の徒が民心の錯乱をはかっているのではないかと懸念している。
9月1日、松陰は中原(佐賀県)まで馬に乗った。途中の山林で銃声を聞いたが、兵士の演習場のようであった。彼はまた、農具や食べ物の形が萩とは異なる事に素朴に注目している。このあたり、故郷の外を実際に走らなかった青年らしい、いかにも新鮮な驚きようである。
2日、佐賀城下を通過、藩校弘道館の教授武富文之助を訪ねたが不在であった。市中を観察するに、書店があり刀剣や甲冑が売られている店もあり、子供たちが袴を着け書物を片手に行き来していて、文武兼備の藩であると感心している。
5日、長崎の長州藩邸に到着。ここにはオランダ船の出入りや海外情報を収集する「聞役」という役職の人間がいた。以後11日まで滞在、海外防備調査で一緒だった郡司覚之進の世話に主になることとなり、従者新介は萩へと帰っていった。松陰はここで、高島秋帆の息子・浅五郎に会いに行ったり、海防書を求めたり、舟を雇ってオランダ船や唐舟を見に行ったり、唐館や出島のオランダ船に乗船して、「上層に砲六門あり、二層には銅箱等を多く積む」などと、船内の様子を目の当たりにすることもできた。この日、松陰はオランダ人から洋酒や洋菓子の饗応を受け、パンも口にしている。
葉山佐内に教わる
9月14日、目的地の平戸にたどり着いた松陰は、早速葉山佐内の下を訪れた。以後、この地を離れる11月6日まで、葉山の下と山鹿流の宗家・山家万介の下と連日のように訪れて、勉学を重ねることになったのである。約50日間ほどの滞在の間に、松陰が紐解いた書物は80冊ほどになった。
葉山は平戸藩の家老職にあったが、海防門台にも造詣が深く、温厚篤実で面倒見の良い人物であった。初対面の時に食事を御馳走してくれただけでなく、訪れるたびにお菓子や果物を出してくれ、自然と談論風発する気安い雰囲気に、松陰はすっかりなじんでしまったのである。ときには、話が弾んで夜の10時を過ぎることさえあった。葉山の方も、まじめに勉学に励み、率直に自分を慕ってくるこの若者の思いを受け容れ、良く応えた。風邪で臥せっている時でさえ、彼を枕元に招いて教えを続けたのであった。
葉山の下で松陰が読んだり借りたり、筆写したりした書物としては、葉山自身が記した「「辺備摘案」や清朝の学者魏源の「聖武記附録」等の兵書・海防書のほか、王陽明の語録「伝習録」や唐の太宗が政教の得失を問答した「貞観政要」等の経書の類が挙げられる。また、江戸時代の儒者・文人の経歴・性行を集めた原善の「先哲叢談」や明の申時行の「書経講義」等も集中して読み込んだ。平戸を去る際、松陰は、再訪を願う漢詩を贈っている。またその後しばらくして、葉山に手紙を贈った彼は、「寝ても覚めても書斎で謦咳に接した時の事を思っております」と、改めて感謝の念を伝えずにはおれなかった。




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