兵学修業と情報活動 ~藩主を感動させる~ |
未明に船に乗る。船二隻、一隻は船の名前を和布苅通といい、関舟(馬関で造られた足の速い兵船)である。櫓は二十丁立てで、内の広さは十一畳、幅一間半、長さ六間、船頭は二人、漕ぎ手は八人。一隻は船の名前を御用丸といい、小早船(馬関で造られた物見・飛脚用の船)である。櫓は八丁立て、内の広さは八畳、幅一間、長さは五間くらい、船頭は一人、漕ぎ手は五人。道家竜左衛門、飯田猪之助、森重政之進、及び私は和布苅通に乗り、多田藤五郎、大西喜太郎、郡司覚之進は御用丸に乗る。この日は空が穏やかに晴れ渡っており、海は小さな波も巻き上げない。三見浦に至って上陸し、地形を視察する。浦は戸数六十軒、浜を西の浜という。西野浜から通村を望んで質問した。距離を聞くと二里であり、通浦までは三里である。三見には円徳、潮音の二つの寺があり、八幡社の馬場には人数を集めることができる。もし砲を設置するのであれば、西の浜が適当であろう。 松陰は連日、人戸の数や沿革、船の様子や潮の流れや灯台の場所、火薬庫や砲台や狼煙台の場所、本陣を置くべき場所や斥候を放つべき場所等々、ひたすら克明に地形や距離などを記録していったのであった。大小の別を問わない克明な筆致からは、これまで学んできた兵学をいよいよ実際に生かすべき時が来たのだという使命感を見てとる事ができる。 また、10月10日には、松陰は兵学門人を指揮して、大砲や小銃を繰り出しての演習を実施することにもなった。こうして松陰は、若いながらも研鑽を重ねつつ、若いなりに次第に藩の中で存在感を示していった。特に大きかったのは、翌嘉永3年(1850)8月2日、親試で「武教全書」の「守城」篇を講じたことである。毛利慶親はその講義を絶賛し、元来修めていた北条流兵学だけでなく、松陰について山鹿流をも学ぶことを決めたのであった。
「武教全書」では、籠城するときは大将の覚悟が重要であると説いている。籠城しておいて最後に降参するくらいであれば、そもそも最初から降伏してしまえばよい。籠城を選ぶからには、負ければ切腹、死を覚悟しなければならない、と。そこで「孫子」九地第十一、「之れを死地に陥れて然る後に生く」という事が浮上してくる。 松陰はいかにして城を守り、いかにして状況を挽回するかを説いたのがこの篇であると指摘する。その際にまず大事であるのは大将の覚悟であって、一旦覚悟さえ定まれば、弱きであっても強きに転じるのである。南宋が金に滅ぼされたときも、アヘン戦争で清朝が負けたときも、せっかく名将や忠義の民が立ち上がったのに、かえって肝心の皇帝が敵に和を求めて国運再興の機会を失ってしまった。そうなるのではなく、「孟子」梁恵王下・第十三条にいう、「池を掘り城を築いて、民とこれを守る、死んでも民が逃げないようにするもの」こそ、上に立つものの覚悟なのである、と。また、主君といえども国家を私有しているのではなく、祖先から引き継ぎ人々に支えられているのであるから、大義を捨てて敵に投降すべきではない、と実際に藩主を目の前にして訴えかけたのであった。そのうえで、その兵学的説明として「死地」の論が浮上するのである。 たいがい、落ちる城や敗れる軍というものは、覚悟が無く、大将も兵士も死や敗北を恐れるがために、かえって死や敗北に至ってしまうのである。すでに死地に陥り、他に考えが無くなれば、かえって生を得、勝ちに至るのものである。 松陰は、南宋が金や元に支払っていた貢物や、清朝がアヘンに支払った代金を富国強兵に用い、上から下まで一致団結して必死に抵抗していたならば、金や元やイギリスなど恐れるに足りなかったと論じた。他方で、そうしたことの成功例として、土木の変(1449)にもその勢いを退かせる事無く、遂に巻き返した于謙の故事を挙げている。北方からの圧力に対して都を南へ遷す事が提起されたが、于謙は、南宋の例を見ても、一度動いてしまえば大勢をすべて失ってしまう。これ以上あえて遷都を言う者は斬る、と断固たる姿勢を示して国論を定めたのであった。これが死地に陥って生きる、覚悟の結果である。後世の国家を守るものは、深く思いを致すべきであろう。松陰は、そのように結論付けている。
大将がまず自ら死を覚悟することを繰り返し繰り返し要求する松陰の熱弁には迫力があったが、話はそこだけで終わっていない。そうすることが兵学的に正しいことを、古今の事例に当てはめて示しているのである。それは、対外的脅威がまさに叫ばれ始めた世情にあって、藩主たるものが現実に思い定めなければならないことであった。ただの書物の上での学問ではなく、実際に決断を要することになる問題なのだという真剣な訴えが、慶親の胸に迫ったということであろう。 |