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 兵学修業と情報活動
 ~兵学の理~
 


 民を見殺しにはできない松陰の論
弘化5年(1848)1月、家学後見が解かれて、数え19歳にして松陰は初めて独立師範となった。同年、山田宇右衛門から兵学の理をさらに深く教わる一事が生じている。それが「戦法論疑」というやりとりである。彼は、西洋の得意とするのは海上での砲戦であるという当時の水準的な理解の元、それならば陸に誘い込んで叩けばよいという通論を、はっきり拒絶した。
「戦法論」を読む。いうことには、「西洋の敵を意のままにする戦い方では陸戦が有利である。陸戦を欲するなら、なるたけ準備ができていないふりをして相手を誘い込め」と。私は、そのようにするのは非常に難しいのではないかと思う。我藩北辺の地形は、丘陵が入り混じるが沿岸に人家がないわけではない。人家があれば守備兵がなくとも、敵の砲撃を受けるだろう。敵が大砲を乱れ撃つからと言って我が方もこれを防げば、相手を誘い込む策は失敗する。しかし防がなければ、罪もない浜辺の民が被害を受ける。この両者は良き将たるものが選ばぬものであり、仁ある者には忍び難いところである。しかも、我が方が砲撃を自由にさえて応じなければ、敵将も我が方に謀があるのを察し、通り過ぎるだけで決して陸には上がってこないだろう。だから私として言いたいのは、敵と戦う方法は、一方で正兵を用い、一方で奇兵を用いるのが一番だということである。正兵とは海岸に大砲を置くことであり、奇兵とは海上で小舟による攻撃を仕掛けることである。
つまり、ここで松陰は、内陸深くの戦闘に持ち込もうとすればそこまで間に住んでいる浜辺の民を見殺しにすることになると反論、やはり沿岸をきっちり守ったうえで、海上で小舟による近接戦闘を行うべきだと主張したのである。松陰らしい、住民への優しさが滲み出た議論であったといえよう。
 山田宇右衛門の反論
これに対して宇右衛門は、兵学的思考の何たるかを示しながら、諭すように反駁する。
戦というものは、どう変化するか窮め尽くす事などできない。重要なのは、状況に臨機応変に対処するという事だけである。僕はただ「なるたけ準備ができていないふりをして相手を誘い込め」と言っただけだから、我が説にこだわって勝ちを全うする術とするべきではない。いま先生が論じたのも「誘い込む」ということについてでしかない。しかし、実地に予期できていないことに任せて、安心してよいのだろうか。しかも、先生は敵に民の家を蹂躙せしめることに疑いを持っている。これはもちろん、仁ある者や良き将が考慮すべき事である。しかし、海の上で戦うのは必ず勝てるのであればよいが、そうでないならば、陸戦の確かさといずれが良いであろうか。戦争が終わった後に民の暮らしを守れているかこそ、統治するものが心砕くことである。僕の判断はこのようなものである。先生は如何に。
あくまで松陰が兵学師範であり、宇右衛門は門人であるという建前があるので、「僕」「先生」という言葉遣いがなされている。しかし、実のところ先生は宇右衛門で、指導を受けているのは松陰であった。要するに、目先の情にこだわって敵を陸に誘いこめないと反論した松陰は、海で戦うか陸で戦うか、その他どう戦うかは状況に応じて勝算の高い作戦を取るべきであって、さもなくば結局民を守ることもできないのだ、とたしなめられたわけである。近視眼的な曲直と兵学の理との間に相違がある事を、彼は教えられたのであった。
では、ここで宇右衛門が語っている兵学の要点とは何か。それは「戦というものは、どう変化するか窮め尽くす事などできない。重要なのは、状況に臨機応変に対処するという事だけである。」の部分である。「孫子」始形第一によれば「利に因りて権を制する」すなわち「勢」であり、兵勢第五には「戦勢は奇正に過ぎざるも、奇正の変はあげて窮むべからざるなり(戦の勢いとは奇と正によって生ずるに過ぎないが、奇と正が組み合わさってどう変化するか窮め尽くすことなどできない)」とある。状況、手段、目的の間の活き活きとしたダイナミズム、それこそが兵学の一つの要点だった。
松陰の苦悩
この年の5月6日、松陰は「護民策一道」と題した短い論策を記している。これも、兵学修業のなかでしたためることになったのであろう。彼はその中で、ひとたび危急があった時に、民が逃げまどい大混乱に陥る恐れをいかに防ぐかを論じた。すなわち、戦国の世であれば人々は整然と難を避けたかもしれないが、泰平しか知らない人々は我先に逃げてしまい、年寄りを置き去りにし子供を捨て、食糧の準備も財産の確保もできずに途方に暮れるに違いない。統治の任に当たる者が秩序を維持しなければならない。いざとなれば、混乱して妨げとなった民の一人、二人を斬り捨ててでも・・・・。
彼はしかし、そう記した後で次のように述べる。「私も、こうした策ができた策だとは思わない」しかし、惨いからと言って非情の措置を取らず、人々の混乱に手をこまねいた結果、餓死者を出すようなことに比べれば、まだよいのだ。また、別の批判、秩序の維持に人手を割くよりは、少しでも敵と戦う兵力を集めたほうが良いのではないかという議論に対しては、人民は国のエネルギー、根本であって、彼らがいなくなれば、たとえ戦いに勝っても、それは一時的なものに過ぎなくなる、と反発している。
ここでも問題の核心は、状況、手段、目的からなる連立方程式をどう解くかにあった。しかし松陰は、またしても、場合によっては通常の倫理には反したかのような苦渋の選択をせざるを得ないときがあるということを、そう簡単には受け入れられなかったのである。
兵学において大切なのは柔軟な思考法であって、如何なることであろうと決めつけてしまってはならない。心根が優しく、しかも何でも生真面目に捉える松陰が、ときに非常にも映る兵学の理をきちんと引き受けるまでには、兵書と経書との間を何度も往復する必要があるのであった。




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