徳川慶喜の人物像 ~将軍後見職~ |
文久2年4月、一橋家当主相続に先立って慶喜は面会文通を許され、翌月には江戸城に登り、将軍家茂に面会している。時に家茂17歳、慶喜は26歳であった。家茂はすでに安政5年7月家定の死によって将軍となっていた。慶喜がかつての将軍の座を巡って争ったライバル家茂を見てどう思ったか。特別家茂の境遇を羨んだことはなかったであろう。また、政局の動きにもそれほど深い関心はなかったと思われる。だが、時勢は彼の思惑に関係なく、否応なしに彼をその渦中に巻き込んでいく。
将軍後継織といっても、別に決まった職制でもなく、また一定の権限もない。しかもその就任は朝廷からの命を幕府が受けざるを得なかったものであり、朝廷の命令の背後には外様大名島津家の動きがあった。慶喜としては誠にやりにくい地位であった。松平慶永にしても同様である。大老ならばそれで十分に腕を振るうことが出来る。しかし政事総裁職ともなると、その職務は判然としない。依然として幕府老中の権力は強く、慶喜・慶永らは一種の形式的な存在であった。彼らが強く行動しようとすればある程度の事はできたであろうが、それは幕府権力を弱めることになる。何故ならば彼等がその職に就いたのは、朝廷や外様勢力によるもので、慶喜らが強くなる事は朝廷などの権威が強くなるという結果になるからである。
間もなく慶喜は京都に出かけることになる。京都では尊攘運動がますます高まり、遂に文久2年10月攘夷勅使三条実美が江戸に下り、翌月幕府は攘夷奉承・将軍上洛を約束した。慶喜は攘夷勅使東下前、自ら京都に赴き、開国論を天皇に説こうと考えた。しかしこれは実行されなかった。もし、慶喜が本気で開国論を天皇の御前で語ったら、ひょっとしたら後世の展開が変わっていたかもしれない。命がけでやってみる値打ちがある政治行為であったが、尊攘の嵐が吹き荒れる京都で、慶喜がこの姿勢を貫くことはできなかった。何が何でもやりとおすという意気地が慶喜には今一つ感じられない。 慶喜は将軍上洛に先立って、文久3年正月5日入京した。将軍家茂は、3月初め入京したが、この間慶喜は、吹き荒れる尊攘運動の中で、その対策に苦慮したのであった。会津藩主松平容保が京都守護職に就き、藩兵を率いて入京したのも、慶喜の入京とほぼ同じころである。この前後、諸雄藩の大名らが相次いで入京し、京都は政局の中心地となった。しかし尊攘派の勢力に押しまくられて、将軍は攘夷実行の期日を答えなければならない始末であった。 |