徳川慶喜の人物像
 ~将軍後見職~
 

 井伊大老暗殺後
安政6年(1859)、慶喜は隠居・謹慎を命ぜられたが、翌万延元年(1860)3月井伊直弼は桜田門外に襲撃されて殺され、次いで同年8月父斉昭が病没し、そこで翌月謹慎を解かれた。しかし隠居はそのままであった。慶喜が隠居の身から、再び一橋当主となったのは、それから2年近くを経過した文久2年(1862)7月の事である。この間政局はさらに変転したが、その著しい現象は西から新風が荒れだしたことである。すなわち、西南雄藩の政局登場、尊攘運動の展開、朝廷勢力の伸長であった。この事が慶喜の身辺にも大きく影響することとなった。
文久2年4月、一橋家当主相続に先立って慶喜は面会文通を許され、翌月には江戸城に登り、将軍家茂に面会している。時に家茂17歳、慶喜は26歳であった。家茂はすでに安政5年7月家定の死によって将軍となっていた。慶喜がかつての将軍の座を巡って争ったライバル家茂を見てどう思ったか。特別家茂の境遇を羨んだことはなかったであろう。また、政局の動きにもそれほど深い関心はなかったと思われる。だが、時勢は彼の思惑に関係なく、否応なしに彼をその渦中に巻き込んでいく。
 将軍後見職に
文久2年に入って尊攘派勢力が京都を中心に結成された。また薩摩藩が政局の上で、重要な地位を占めるようになっていた。薩摩藩の場合、藩主忠義の父島津久光が実権を握り、久光は公武合体的立場をとっていた。同時に幕政の改革をも志向していた。この久光の画策によって朝廷から大原重徳勅使が江戸に派遣され、幕府に慶喜を将軍後継織に、松平慶永を政事総裁職とすべしとの意が伝えられた。はじめ老中たちは容易にこれを受けようとしなかったが、結局押し切られてこれを承諾した。慶喜に対し将軍は「此度、叡慮を以て仰せ下され候に付、後見相勤められ候様に」と伝えた。こうして慶喜は、自ら望んだのでもないのに、難しい立場に立たされることになった。
将軍後継織といっても、別に決まった職制でもなく、また一定の権限もない。しかもその就任は朝廷からの命を幕府が受けざるを得なかったものであり、朝廷の命令の背後には外様大名島津家の動きがあった。慶喜としては誠にやりにくい地位であった。松平慶永にしても同様である。大老ならばそれで十分に腕を振るうことが出来る。しかし政事総裁職ともなると、その職務は判然としない。依然として幕府老中の権力は強く、慶喜・慶永らは一種の形式的な存在であった。彼らが強く行動しようとすればある程度の事はできたであろうが、それは幕府権力を弱めることになる。何故ならば彼等がその職に就いたのは、朝廷や外様勢力によるもので、慶喜らが強くなる事は朝廷などの権威が強くなるという結果になるからである。
 京都へ
このような難しい地位についた慶喜は、松平慶永と幕政改革を計るが、それは容易なことではなく、参勤交代制の緩和が一つの目立ったものであった。江戸にいる間はまだよかった。
間もなく慶喜は京都に出かけることになる。京都では尊攘運動がますます高まり、遂に文久2年10月攘夷勅使三条実美が江戸に下り、翌月幕府は攘夷奉承・将軍上洛を約束した。慶喜は攘夷勅使東下前、自ら京都に赴き、開国論を天皇に説こうと考えた。しかしこれは実行されなかった。もし、慶喜が本気で開国論を天皇の御前で語ったら、ひょっとしたら後世の展開が変わっていたかもしれない。命がけでやってみる値打ちがある政治行為であったが、尊攘の嵐が吹き荒れる京都で、慶喜がこの姿勢を貫くことはできなかった。何が何でもやりとおすという意気地が慶喜には今一つ感じられない。
慶喜は将軍上洛に先立って、文久3年正月5日入京した。将軍家茂は、3月初め入京したが、この間慶喜は、吹き荒れる尊攘運動の中で、その対策に苦慮したのであった。会津藩主松平容保が京都守護職に就き、藩兵を率いて入京したのも、慶喜の入京とほぼ同じころである。この前後、諸雄藩の大名らが相次いで入京し、京都は政局の中心地となった。しかし尊攘派の勢力に押しまくられて、将軍は攘夷実行の期日を答えなければならない始末であった。




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