将軍後見職時代
 ~将軍後見職就任 その2~
 

 最高権力者は誰か?
前頁の慶喜の発言は、「徳川慶喜公伝」編纂委員の一人、井野辺茂雄の質問に答えてのものである。井野辺が、後見職とは朝廷で言えば摂政のようなもので、将軍に代わって一切の政治を裁決する機能を持っていたのではないかと尋ねたのに対して、慶喜は、名義はそうだが、自分の場合は実権はありはしなかったと答えている。老中で腹を決めたうえで、自分や春嶽に同意させる。同意させて後見職・総裁職の名前を出して行う。そうすれば朝廷も文句を言わず諸大名にも抵抗が少ないという使われ方をしたのだと説明する。
井野辺は更に押して、「どうも越前家の記録を見ましても、老中の権力が非常に強いようで、御前(慶喜)や春嶽候の御意見も行われぬ事がしばしばあったようでございますが」と尋ねる。慶喜の答えは、「そう、都合よくいった時は、出て決めてくれろと言ってきめる。それで良いといえばそれで決まってしまう。不都合な事はなかなかそうはいかない」と、自分達の意見の行われぬことがあったのを認めるものだった。
井野辺の関心は、後見職が置かれていた時の真の最高責任者は後見職なのか、それとも将軍なのか、というところであった。老中が後見職を飛びこして、直接将軍の親裁を仰ぐということがあったのではないかと、しつこく問いただした。慶喜後見職任命のいきさつからして、これは重要なポイントである。
慶喜は、まがりなりにも後見職が置かれている以上は、将軍親政ではない、と答える。後見職の意見が通らぬことはある。しかし、後見職が承知しないことを老中が将軍のところへ持ち込んで決めてしまうことはあり得ないというのである。小さな事件なら直接後見職を経ないで将軍へ行くこともあるかもしれないが、重大事件では、そういうことは起こりえないという。
 参勤交代の改革
井野辺が例を挙げてしつこく追及しているのは、文久2年の閏8月に決まった参勤交代制の改革についてである。「越前家の記録」で見ると、板倉閣老が将軍家に申上げて御親裁を仰いだという事が出ているが、そういう事があり得るのか、慶喜後見職を経なければ将軍のところへ持っていけない制度ではないか、というのである。
慶喜は、参勤交代というような重要案件が後見職を経ないで将軍のところへ行く事はあり得ないときっぱり否定する。しかし井野辺も、「越前家の記録」を盾にとって粘りに粘った。
慶喜に質問する席で、井野辺らが「越前家の記録」というのは、「続再夢記事」である場合が多い。しかし「続再夢記事」の文久2年閏8月のあたりには、参勤交代の事で「板倉閣老が将軍家に申上げて御親裁を仰いだ」という井野辺の表現に相当するような記事は見当たらない。別の記録を見ているのか、あるいは「続再夢記事」の井野辺の読み取り方が的を得ていないのかの、どちらかである。そうして、いずれにしても、この参勤交代制改革の問題では、井野辺のようにしつこくこだわるのも、それを向きになって否定する慶喜も、共におかしい。参勤交代制改革は、慶喜と春嶽の意見を押し通せた珍しい例であって、後見職・政事総裁職の主張が承認されているのだから、それを、誰がどういう手順で将軍に伝えるかは、さしたる問題ではないはずである。
参勤交代制改革は、松平春嶽のブレーンであた横井小楠の発案である。小楠は、徳川の安泰の為に諸侯に強制している参勤交代や妻子人質制を廃止し、地方官である大名が中央政府である幕府に政治報告に来る短期間の「述職」に切り替えるべきだとの意見の持ち主であった。彼は病気と称して引きこもっている春嶽に代わって、この説を御用取次の大久保越中守や大目付の岡部駿河守等に吹き込み、大久保や岡部がそれを老中らに説いた。
慶喜は、岡部大目付が披露した小楠の論に感心し、この案を推進することに決めた。小楠を幕府に召し出して、改革の相談役にしたいとの手紙を春嶽に送るほどの力の入れようであった。




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