将軍後見職時代
 ~将軍後見職就任 その1~
 

 将軍後見職の実態
慶喜が将軍家茂の後見職になったのは、文久2年(1862)7月6日の事である。
それに先立つこと約2カ月、同年の5月9日、田安慶頼が後見職を解任されていた。慶頼は、家茂が将軍となった安政5年以来、ずっと後見職だったのだが、就任当時13歳の少年家茂が17歳に成長したので、もう要らないということになったのである。
慶喜もその犠牲者の一人だった井伊直弼大老の安政の大獄・恐怖政治は、田安慶頼後見職のもとで強行された。慶頼がこれにブレーキをかけた様子はない。将軍家茂も後見職慶頼も、井伊のなすがままに任せたのである。
この間の事柄について、慶頼の実の弟である松平春嶽が「逸事史補」の中できついことを書いている。「慶頼は一身の働きをなすおとあたはず。井伊掃部頭の奴隷と見做して可なり」というのである。また「慶頼の用人上野山六郎左衛門は、井伊候の使令を受けて一時の権勢を得たり」とも付け加える。水戸や尾張への謹慎の方法についての内命は、田安の家来が伝達したのであるらしい。春嶽が霊岸島の別邸に閉居したのも、同じ内命によるものだったという。
井伊直弼の「奴隷」と見做してよいと春嶽が断定するような田安慶頼後見職では、文久2年の新しい政治情勢のもとでは、辞めさせられても仕方ないだろう。
 勅命により慶喜を後見職に
慶頼を罷免するについての相談が、老中久世大和守から春嶽に持ちかけられたというのは、やはり「逸事史補」に出てくる話である。「兄弟の際、大に困却せり」と書いているから、春嶽は、どのように応対すればよいか迷ったのであろう。田安の家来上野山六郎左衛門の役儀を罷免する件については、春嶽が田安の家老へ談判したのだという。「其困苦今に忘れざる也」と明治になって書くのだから、春嶽の閲歴中での難事件だったのである。
このようないきさつを経て、田安慶頼は後見職をクビになった。政治的罷免だということをカムフラージュするため、官位を正二位権大納言に昇進させ、立派に務め上げたことを評価する体裁にしたのは、老中久世大和守等の芸の細かい所である。
ところが、こうやって後見職を清算したのに、勅使大原重徳がもたらした朝旨には、一橋慶喜を将軍後見職にせよという要求が盛り込まれていた。老中らが抵抗したのは当然である。幕府人事に介入する事が既に不都合である上に、つい先ほど廃したばかりの将軍後見職をまた置きなおして、しかもそのポストに、将軍継嗣問題で家茂のライバルであった一橋慶喜を据えるなど、到底できる相談ではない。
 巻き返しを図る薩摩の陰謀?
しかし、勅使は押し切った。むろんそれには、勅使大原を擁してきた島津久光と薩摩藩士による老中威嚇が、あずかって力あった。6月29日、死を決して江戸城に臨んだ大原重徳に対して、老中脇坂内務大輔らはもはや抵抗せず、次いで7月1日、実に5度目の勅使入城に際しては、将軍家茂が、勅使遵奉を回答したのであった。
そこで7月6日、慶喜のところには、まず一橋家の当主の地位を回復するとの台命が伝えられ、その御礼の為即日慶喜が登城すると、将軍から直接に、後見職を務めるようにとの言葉があった。一橋家で記録したところによると、将軍の言葉は「孤度、叡慮を以て仰せ下され候に付、後見相勤められ候様に」というものだったようだ。天皇の命令だから私の後見職を務めてくれと依頼したわけである。
事情をありのまま言ったとも、また、本当は私の希望ではないのだという意味とも受け取れる。含みのある表現で、新しく後見職となった慶喜の立場の難しさをよく示していた。
実際、後見職となった慶喜を取り巻く政治環境は、複雑微妙を極めた。松平春嶽の政事総裁職就任がそれに輪をかける。
そういう事情を、晩年になっての慶喜は、「徳川慶喜公伝」編集委員たちの質問に答えて、次のように回想する。
「もともと幕府の方では、後見職や総裁職があるのを望まない。しかるにやむを得ずして、よんどころなくそれを聴かなければならぬという場合になって、ついに御達しというものまでに運んだのだね。(中略)それで後見職と言い総裁職と言うけれども、ここまでは言う、ここから先は秘密だというものは、後見でも総裁でも話さない。そこで衝突したこともあった。だいたいあの節の後見・総裁っというものは、ただの大老でもなければ何でもない。そう考えなければよく分からない」
(続く)




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