江戸での活躍
 ~将軍継嗣問題~
 


 勅命工作
江戸についた西郷は、早速慶喜擁立に動き出した。まず江戸の越前藩邸を訪ね、斉彬から松平慶永宛の手紙を橋本左内に渡した。西郷は慶永の指示のもと、篤姫(将軍家定の死後、天璋院)や一橋家出身の斉彬夫人・英姫を頼って、大奥に働きかけようとしたのである。
安政5年(1858)2月、越前藩の中根雪江が西郷を訪ね、徳川斉昭の手紙をもってきた。西郷はこの書を英姫お付きの老女・小の島を通じて大奥へ送った。しかし一橋派の斉昭は大奥から人気が無く、逆に南紀派が大奥をうまく丸め込んでしまった。
そこで西郷や橋本が考えた秘策は、朝廷から慶喜を将軍継嗣とする勅命を得ることだった。同年3月、西郷は京都へ向い近衛家に働きかけ、勅命を得ようと工作を開始する。近衛家に出入りしていた清水寺成就院の僧・月照と知り合ったのはこの時である。西郷は月照とともに活動する中で彼を信頼し、この和尚となら生死を共にしてもかまわないと思ったのだ。
 堀田老中と橋本佐内の交換条件
それと同時進行で橋本は、日米修好通商条約の勅許を得ようとして上洛していた老中・堀田正睦と接触した。通商条約の勅許獲得に協力する代わりに、堀田には慶喜の継嗣を斡旋させたのである。
一安心した西郷は3月20日に江戸へ帰った。22日、朝廷は堀田に、将軍継嗣は「英傑」「人望」「年長」の三条件をもって選べと通達する手筈になっていた。これは幼い慶福よりも、英傑で人望のある慶喜を選べという意味である。
この作戦は功を奏するかに見えた。ところが大逆転が起こったのである。南紀派の彦根藩主・井伊直弼は家臣の長野主膳を使って、巻き返し工作を行っていた。関白・九条尚忠を丸め込み、22日の堀田への通達は「協議を尽くして選べ」というものにすり替わっていたのだ。
堀田は通商条約の勅許も得ることができず、失意のまま江戸へ帰っていった。そして幕閣にも勅許不可の報告をして失脚してしまう。
4月23日には井伊が大老に就任した。これは進歩派の堀田を追い落とすために、堀田の留守中に保守派の井伊らが仕組んだクーデターであった。井伊が大老になった事によって、西郷らの活動に暗雲が立ち込めることになる。
 起死回生を願って奔走
雄藩が連合して幕政を大改革するという計画は、井伊直弼が大老になった事で不可能になり、今までの努力がすべて水の泡になってしまうと斉彬は考えていた。そこで斉彬は、いざとなれば御所の守護を理由に大軍を率いて上洛し、朝廷から慶喜継嗣の詔勅を得ようと決心する。
その頃西郷はどうしたらよいか途方に暮れ、いったん帰国しようとする。この時、橋本に会い、慶永から斉彬宛の手紙をことづかっている。そして江戸を出発、京都や大坂で諸士と交わって情勢を聞き、斉彬の支持を請う為鹿児島に帰って来た。
斉彬は西郷に次なる指示を出した。慶永・川路聖謨宛の手紙を携えて上洛し、途中で筑前藩主・黒田長溥に謁見し斉彬の意向を伝えよとのことだった。兵を率いて上洛するためには、諸侯の支持を取り付ける必要があったからである。
いかし、無事使命を果たして大坂の薩摩藩邸に入った西郷を待ち受けていたのは驚くべきは無しだった。土浦藩の大久保要から安政の大獄が始まったと聞かされたのである。




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