石田家のルーツ
 ~荘園の代官~
 


 大原観音寺の文献
先の項目で、石田三成の祖先が京極家の被官ではなかったかと記述したが、もっと身近な史料に三成の祖先が登場する事実が判明した。
その史料とは、三成が幼いころ預けられていた「三献茶」の逸話の舞台とも言われる大原観音寺の文書である。大原観音寺は、三成が生まれた石田から東に峠を越えた麓、大原荘内(現米原市朝日)にある天台宗寺院である。滋賀県指定文化財となっている600点余にのぼる中世文書の中に、石田村の土豪だった石田氏の姿が散見されるのである。
先ずその初見は、応永26年(1419)の「本堂造作日記帳である。ここには、観音寺本堂の造立にあたり、寄付を行った人々の名が列挙されている。その一人に「一貫文 石田東殿」とある。その隣には「五百文 石田村人中ヨリ」とある。当時「殿」という敬称をもって呼ばれた人々は、土豪という「村の武士」であった。この「石田東殿」が、石田三成の祖先である可能性は高い。
下って、文明年間(1469~87)と推定される文書には、「石田式部丞景俊」という人物が現れる。この文書は、坂田郡上坂郷の土豪であった上坂家信とともに、石田景俊が大原荘の領主大原氏の命を受けて、観音寺領から確実に年貢があがるよう保証した文書である。
大原荘は現在の長浜市の隣、米原市の大原小学校区に当たり、先の観音寺はその西端にあったので「大原」の名を冠している。観音寺の寺領は、この大原荘内に多くあったが、山を西に越えた現在の長浜市域にも、かなり点在していた。この文書で石田景俊が保証した寺領は、現在の長浜市域でも、その勢力が及ぶ石田を中心とした所と考えられるが、逆に大原氏に頼られるくらい、石田氏は山西部(石田村)では勢力を有していたことを示している。
  石田景俊息子
この石田景俊は、文明4年(1482)春運という者が坂田郡山室保の内、石田字中のコヌの地一反を売却した証文に、「下司」として署名している。山室保の「保は「荘」と同様な意味で、中世の荘園の一種と考えてよく、比叡山の門跡・青蓮院の所領であった。位置は、石田三成の出生地と東隣の八幡神社の間の道を境にそこから東の地域となる。三成出生地を含む、その境から西の地域は、福能部荘という別の荘園だった。
石田と大原観音寺の間は、観音坂という峠道でつながるが、この道はのちに木下秀吉が城を持つことになる横山を越える。この観音坂の石田側の登り口に坂下の集落があるが、この山室保はこの坂下を中心とし三方山に囲まれた、文字通り「山」の「室」状態の荘園ということになる。
石田景俊はこの荘園の「下司」といって、荘園の現地でのその経営を預かる代官であった。そして彼は、この文書でその山室保内での売買の成立を、荘園代官としての役職上保証し、サインをしていることになる。また、文亀2年(1502)の文書では、石田氏は山室保の公文として見える。公文も同じく荘園の代官である。
下って、三成がまだ秀吉に見いだされる前の永禄年間の観音寺文書には、三成の父・隠岐守正継がまだ十左衛門と称していた時代の書状が数点残っている。これらを見ると、石田正継は観音寺への寄進米の納入に指示を与えるなどしており、同寺の旦那(信者)であったことがわかる。このように、観音寺文書からは、同寺と石田家の深い関係がうかがわれ、三成が幼いころ預けられていたという話もうなずける。

  荘園の代官であった息子
上記の観音寺文書の分析から、石田家は三成が活躍する200年近く以前から、山室保という荘園の代官として、坂田郡石田に住した土豪であったことが知られた。この事実は、全くこれまでの三成研究では触れられてこなかった。それでも従来言われているように、石田家が京極氏に仕えたことは事実であろう。また当然、その後台頭する浅井氏にも臣従したと考えられる。
信長・秀吉の時代、土豪=村の武士たちには、大きな決断が迫られた。村を離れて武士になるか、それとも村に残って農民として生きていくか、いずれにしても兵農分離と言われる大改革の前に、湖北の土豪たちも大いに迷い、様々な選択を行った。
ある者は、浅井氏滅亡とともに帰農した。また、ある者は関ケ原合戦までは大名に従い、各地を転戦したが、結局は村へ帰った。もう少し長く、大坂の陣まで武士であった者もいただろう。
一方、江戸時代に武士となった者には、山内一豊や蜂須賀家政などの豊臣系の大名の家臣となって、各地へ散らばっていった者も多い。そして、自身が大名となった者も多い。小堀遠州の小堀家や、脇坂安治の脇坂家などである。湖北の地は、天正元年(1573)から10年ばかり、後に天下人となる秀吉の領国になった関係上、武士の道を選んだ土豪は他の地域よりも多かったであろう。秀吉自身はもちろん、尾張や美濃から従ってきた秀吉の家臣たちも、そのまた家臣を湖北の地で物色したからである。
そんな中、秀吉自身に見いだされた土豪出身の石田三成は、順調に大名としての道を歩んでいくはずであった。しかしその道は、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で無残にも閉ざされた。石田家は、兵農分離に際して、家の消滅という最も悲惨な選択を迫られたのである。




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