2・新選組結成 上洛 |
浪士組募集に応じる |
浪士組募集の情報を試衛館にもたらしたのは、永倉新八だった。池田徳次郎らが募集にやってきたのではなく、永倉が噂を耳にして伝えたのだという。文久3年1月10日前後のことだっただろう。ためらうことなく、彼らは応募を決定した。 1月15日、歳三は小島家を訪れている。翌16日には近藤勇が訪れ、翌日には沖田総司と山南敬助がやってきて、一泊して帰っていった。このとき、歳三は刀一振、勇は鎖帷子を鹿之助から借りている。これらの訪問が、上洛への挨拶だったことは言うまでもない。 浪士組応募者の集合は2月4日、江戸小石川の伝通院と前もって決定されていた。 その当日、院内の処静院大信寮に集まった浪人の数は、三百人とも三百五十人ともいわれる。無制限と言っていい応募条件に、希望者が殺到することを知らされた浪士取扱の松平主税介は、その人数の多さに、任に余ると辞任していた。 幕府の当初のもくろみでは、応募人員50人、一人当たりの手当を50両として、合計2500両を用意していたというが、その数倍もの応募者に手当の減額を申し渡したところ、辞退者が続出したとされる。しかし、1月22日に土佐の坂本龍馬が、勝海舟から得た情報によるとそうではない。 「浪人きたり候ときは、二人扶持に金拾両、幕府より下され候よう承る」 一人扶持は1日に米5合の支給、二人扶持では一升の米が毎日支給されることになり、他に現金で十両が手渡されたのだった。二千五百両という幕府の用意金が、これによれば二百五十人分となり、妥当な金額となる。勝海舟の情報が正しいと思われる。ちなみに、この年の春の江戸米は一石ほぼ一両二分で、一両は約7600円である。 |
芹沢鴨 |
応募者のうち、まず不適格者が除かれた。そして一隊十人を率いる小頭が任命され、さらに三隊をあわせて一組として、七番組までが編成される。 ここで、歳三は芹沢鴨と出会った。沖田総司、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助と共に、六番組の小頭のひとりとなった芹沢の組に配属されたのだった。しかも残る3人は、芹沢の配下ともいうべき平山五郎、平間重助、野口健司であり、ここに新選組の母体となる近藤派と、芹沢鴨の一派が最初の接近をすることになる。そして井上源三郎は沖田林太郎、馬場兵助、佐藤房次郎、中村太吉郎という日野の理心流門下とともに、三番組の一隊に配属された。その小頭が新見錦だった。上洛後、京都に残留して新選組を唱えるようになる彼らは、自らの意思とは別の力によって結び付けられたのであった。 また、役職付き三十数人が選ばれ、近藤勇は「先番宿割」に選任された。 翌日も大信寮で会合が開かれ、道中心得の申し渡しがあり、手当金拾両の内金として五両が支給される。 |
事件 |
出立日の2月8日、浪士たちは伝通院に集合した。浪士たちは実に老若様々で、最年長者は諏訪山熊三郎の63歳、最年少者は長沢千松の17歳があげられる。服装も小袴、野袴、又引、木綿羽織、割羽織とまちまちで、鉢金入りの鉢巻をしている者もあれば、金無垢の大小をさす者、二本とも大刀の者、他に槍、弓、陣刀と思い思いの武具を手にしていた。 浪士組234人は五つ半時というので、今の午前9時頃に伝通院を出立した。実権を握る清河八郎は隊列に交わることなく、その前後を歩いていたという。 中山道を進む浪士組は、昼食を板橋宿でとり、そこから二里八丁(8.7キロ)の蕨宿で第一夜を迎えた。 2日目の2月9日、四里二十四丁(18.3キロ)を歩いて鴻巣宿に泊まる。 2月10日は、九里二十二丁(37.8キロ)の本庄宿が宿とされていたが、ここで芹沢鴨の怒りが爆発した。先番宿割の近藤勇が、芹沢の宿を取り忘れたのだった。自分に宿がないとはどういうことだと、芹沢は大いに怒り、挙句の果てには野宿をすると言って、宿場中の木材を集めて大焚火をたいた。近藤と浪士取締役の山岡が散々謝罪して、ようやく機嫌を直して宿に入ったという。 だがこの事件は、実は永倉新八の「新選組顛末記」以外に伝わっていない。土地の記録にもないらしい。この事件が本当のものだったかどうかも確実ではないようである。 |