2・新選組結成 浪士組募集 |
文久2年の世相 |
文久2年という年は、徳川幕府が大きく揺らいだ年であった。 嘉永6年のペリー来航以来鎖国主義が崩壊し、それに伴って尊王攘夷運動が活発化した。幕府内の政策の是非が、幕府と朝廷の是非に発展する。 朝廷を尊ぶべし、という尊王思想は旧来からあったが、それが幕府の否定につながる動きを見せていた。朝廷より開港を不満とする勅書が水戸藩単独に下され、それが安政の大獄につながり、桜田門外の変を呼ぶ。公武合体のために和宮降嫁が画策され、坂下門外の変が起こり、生麦事件を生んだ。 水戸藩以外にも薩摩、長州、土佐などの藩が、攘夷の名のもとに幕政批判を行うようになる。また、諸藩の脱藩者や浪人たちは尊王攘夷を唱えて京都に集まり、商人から攘夷のための軍資金と称して金品を強奪し、天誅と称して幕府寄りの人物を殺戮していた。 諸藩の動きはあくまでも政治の枠内のものであったが、幕府が頭を痛めたのは京都に横行する「有志」「志士」と称する浪人たちの問題だった。京都の警備には所司代と町奉行所があたっていたが、もはやそれだけでは手に負えない状況となっている。無政府状態同然であった。 そのため、幕府は新たに「京都守護職」を設け、会津藩主の松平容保を就任させる。文久2年閏8月1日の事だった。その年の12月24日、容保は千人の家臣と共に入洛し、黒谷金戒光明寺を本陣とする。 容保が守護職に就任した月の下旬、ある献策が幕府の政治総裁職松平春嶽こと慶永にもたらされた。京都の浪人を制圧するため、江戸の浪人を募集し、彼らをその任に就かせよ、というものだった。 |
清河八郎の危険な献策伝 |
公武合体実現のため将軍徳川家茂は、翌年3月に上洛の予定とされている。ここで江戸の浪人を京都に送ってしまえば、上洛にとって手薄になる江戸から浪人が減り、さらに彼らによって京都の浪人が抑えられる。幕府にとってまさに一石二鳥の浪人対策だった。 この献策は講武所剣術教授の松平主税介からなされたが、その背後には出羽庄内の郷士清河八郎がいた。 清河は17歳で江戸に出て、千葉周作の玄武館に学ぶうちに政治的な志を持つようになった。文久元年末から翌年にかけて西国に遊説に出かけ、4月には討幕の挙兵を企てている。この改革は伏見の寺田屋事変によって破れたが、幕府側に良かれとの策が、この人物から生まれるはずがない。実際の狙いは、上洛させた浪人たちを攘夷の先兵とすることにあった。その人集めを幕府にやらせてしまおうという、まさに奇策だった。 幕府にとって危険人物というべき清河の策が、松平春嶽にまで届いたのは、幕臣の山岡鉄太郎の力が大きく働いていた。山岡は号を鉄舟といい、勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末三舟」の一人として知られる。安政元年に19歳で千葉周作の玄武館に入門し、同4年に清河と親交を結ぶようになった。私淑していた、といってよい。山岡は、清河を先生と言っていたほどだという。 藩という基盤を持たない清河にとって、山岡は幕府へ通じる絶好の人物だった。山岡を通じて松平主税介から松平春嶽へという経路で、ついに浪人清河八郎の声が幕閣まで届いたのだった。 |
浪士組募集 |
12月8日、幕府は清河の献策を受け入れ、松平主税介を「浪士取扱」に任じ、さらに鵜殿鳩翁を加えた。主税介は清河の推薦を受けて、山岡鉄太郎と松岡万を「浪士組取締役」とし浪人の募集を開始させる。実際に行動したのは、やはり清河の同志の池田徳太郎と石坂周造だった。 募集に際して、山岡が池田徳太郎に下した文書の写しが、東京都台東区上野の彰義隊資料館にある。 「尽忠報国の志を元とし、公正無二、身体強健、気力荘厳の者…」 これだけが応募の条件だった。さらに、職業の貴賤も年齢の老少も問わずに召し抱える、としている。彼らは、この文書を手に一か月間、関東各地から甲州にかけての国々を駆け巡ることになる。 土方歳三は、こんな動きなどもちろん知る由もない。そもそも、試衛館の誰もがまだ知らない。 彼らは、当時のほとんどの人々が外国人を忌み嫌ったように、彼らを排する攘夷思想を持っていた。もちろん、朝廷も崇めていた。尊王攘夷主義者と言ってよい。そこに徳川幕府を介在させるかどうか、その一点が尊王と佐幕の岐路となっている。現にある幕府を排除するためには行動しなければならないが、現在の体制をよしとすれば、別に動く必要はなかった。尊王も攘夷も議論の対象以上になることはない。 この時歳三は俳句に夢中になっていたらしい。また、恋をしていたようだが、浪士組の募集がそれを断ち切ったようだ。 |