浦賀沖にやって来た黒船 ~世相騒然?~ |
松代藩の佐久間象山は、黒船来航のニュースを翌7月9日に入手するや、江戸藩邸を出発、大森から小舟を雇って金沢沖を目指したが、強風で舟が出ない。やむなく神奈川まで歩き、そこで舟を雇い、「帆掛け舟は順風に乗り、すべるように走った」と手紙に記している。 象山には政治的・技術的な強い関心があったが、ほとんどは芝居見物の気分の庶民である。「大島がやってきた」と言われ、飛ぶ鳥の如く疾走する黒船が、いつまでいるか保証はない。怖いもの見たさと新し物好き、今を逃さじ、と繰り出した。幕府は再三、異国船見物禁止令を出すが、従わすことはできなかった。
「投錨に先立って、幾多の防備船が続々と海岸を離れ、寄ってくるのを認めた。提督は言葉と信号で、旗艦以外には誰も載せてはならないと命令した。さらに提督は、日本人の乗船は同時に3人まで、それも用件がある者のみとした。従来は、このような人々の乗船をすべて認めるのが海軍の習慣であったが・・・・」 乗船を制限した理由として、1846年のアメリカ東インド艦隊司令官ピッドル(コロンブス号)の経験を挙げる。到着するやたちまち四百隻もの小舟が押し寄せ、異国船を取り囲んだ。日本側の記録には、その数六百隻とある。相当の数であり、すべてが警備の舟とは考えられない。多くは近辺の漁船や運搬船であろう。 「1846年、コロンブス号が江戸湾に入港したときには、同時に百名にのぼる多数の日本人を乗船させた。彼らは何の遠慮もなく士官達から歓待を受けて充分に寛いだが、我が方の上陸という話になると、それは不可能だと手真似で答えた」 その経験に基づき、「ペリー提督は彼らと同じ程度の排他主義を実行し、日本の役人には旗艦サスケハナ号への接触だけを許可すると、あらかじめ決めていた」という。
こうした庶民の行動背景には、物見遊山が極めて盛んだった当時の風潮がある。江戸の人口は当時、世界最大規模の約130万人であった。江戸からは東海道を徒歩で下るか、海路を小舟で南下し、金沢八景辺りで下船し、大山に参詣、下って江の島に参るコースが人気を集めた。大山が男性の神、江の島の弁天様が女性の神で、両方に参詣すればご利益が倍増する。 もっとも、これは旅に出る口実で、実際には道中の飲食と、豊かな自然に囲まれた二泊三日のストレス解消、そして広く世間を知りたいという好奇心である。その延長上に黒船見物があった。度肝を抜く巨大な黒船、何が起きるか、膨らむ期待といささかの不安、「宵越しの金は持たない」江戸っ子たちの気質にぴったりはまったのだ。 |